愛し、
縁側で桜を眺めている内に微睡みに誘われてしまったのだろう。小太郎が庭の木に止まった時には既に主の氏政は舟を漕いでいた。春の日和とはいえ陽が翳れば肌寒い。小太郎は枝の上からどうしたものかと困り果て、うつらうつらする氏政を見守っていた。奥ノ院から羽織でも取ってくるのが良いのだろう。けれども小太郎は忍、卑賎の身だ。主に召される以外でお城へ入ってはならない。誰ぞ、小姓でも世話役でも良い、運良く通りすがってはくれまいかと願ったが、主の傍へ寄る足音は終ぞ聞こえない。とうとう小太郎は大振りの枝に蹲って考えた。このままでは主が体調を崩してしまわれる。ほんの小さな病が命取りになるほど、氏政は老いている。他所の老人よりもずっと矍鑠としているけれども、やはり弱い生き物なのだ。
ううんと声なき声で唸っていると、下の方から春の風がふわりと舞い上がった。さわさわと桜を散らして上空へ昇っていく。舞い散る桜と共に、空の青へ吸い込まれていく黒い羽を見て小太郎は閃いた。己の装束を繁々と見やる。嘴を象った兜、黒金の鉤爪と脛当、それから蓑の如く肩からだらりと下がった黒い羽飾り。烏と鳶と雁との羽を縫い合わせて拵えた飾りはふんわり柔らかく、あたたかい。
枝の先が僅かに上下に跳ねて、その次には小太郎は其処から消え失せていた。そして真っ黒い大きな鳥が羽ばたきもせず地面に降りる。縁側を見やると氏政は未だ浅い夢に居る。けれども少し眉の辺りに寒さを寄せている。小太郎は篭手の結び目に歯を立て、ぎりりと組紐を噛み解く。黒金を剥ぐと下から人間の肌が現れた。音を立てぬよう篭手を外し、鉤がついた具足を外し、手足だけを人に戻す。そうしてから、とんと地面を蹴って宙を跳ねる。瞬く間に氏政の背後に現れると、今度は驚くほどゆっくりとしゃがみ込む。
立てた膝の両方で氏政の痩躯を緩く挟み、後から腕を回して羽飾りを細い双肩に掛ける。それから、そうっとそうっと小太郎の方に引き寄せた。眠る氏政を起こさぬように抱き抱える。小さく枯れた老爺は腕の中に容易く納まり、黒い羽飾りは難なく痩躯を覆い包んだ。起きないように起きないようにと細心を配りながら、小太郎は主の寝息に耳を欹てる。さわさわ揺れる花の枝の声と同じくらいに、氏政の呼吸は安らかだった。
小太郎は息を吐いた。起こさぬよう、安らぎを僅かでも妨げぬよう、細く息を零した。小太郎の腕の中で、主は鎖骨の辺りに頭を預けるようにして寝息を立てている。知らぬ間に与えられていた人肌が心地よいのだろう、より深い眠りに身を委ねている。すうすうと健やかな音に耳を欹てて、小太郎はこっそり笑んだ。
小太郎は主の呼吸を聞きながら、胸の奥がじんわり温まっていくのを感じていた。
(生きている、)
温かい、命は温かい。この老人に宿る命はか弱く、いつ潰えてしまうのか解らぬ。けれども決して脆弱でない命の火。小太郎の何倍もの年月をかけて燃え続けている命の火。美しい小田原を照らすための、命。
(なんて、尊い。)
この腕に収まる小さなものが小太郎の全てだ。小田原、そして北条。風魔はそれを守るために存在する。何人も、何物も、触れさせはしない。美しい国、そして優しい人たち。風魔は報酬次第で誰の為にも働くけれど、守りたいと願うのは。此処に在る小さな温かい、
小太郎は氏政を包む腕をほんの少し狭めた。小太郎の命と、氏政の命が合わさって、とても温かい。目を閉じると心臓の鳴るのが聞こえた。ぴったりと合わさった二つの鼓動を聞きながら、小太郎は自分の命が氏政に流れてしまえたら良いのにと、願いながら目を閉じた。
(いつまでも、こうして、まもってさしあげたい)
自分の命が氏政を守って永らえさせる、そうなったら、嗚呼どんなにか。