あなたへの月
あなたへの月
小太郎は縁側で満月を見上げていた。今夜は中秋の名月、というらしい。飾りの薄がさわさわと微かに揺れる。山盛りに盛られた月見団子の一つを掌で持て余しながら、落ち着かなく小太郎は隣を盗み見た。主は小太郎と並んで冷酒を一杯、そろりと呑んでいる。蒼褪めた月明かりを浴びながら、老人は穏やかに表情を緩ませている。小太郎はその表情が大好きだったが、この状況には戸惑っていた。
忍びのような卑賎が城主と隣並びで居るなどと。とても許されない。主は小太郎に対して格別の扱い、というより子どもか孫のように接してくることがしょっちゅうある。今夜も夜警に当たっていた小太郎を呼びつけ、強引に縁側へ座らせたのだ。甘やかされているのだ、ということは分かる。それは嬉しい。けれども困ってしまう。
小田原のため北条のためと幼い頃から言い聞かされてきた。影から風の様に、お城を守り北条に尽くすが風魔の在り様。身分無き忍びたちの唯一の寄る辺がお城なのだ。風魔小太郎にとって北条家は、ひいては氏政は唯一絶対の人なのだ。だからこんな風に馴れ馴れしくするのは、本当はあってはならない。主が許しているのだから小太郎が困ることは何も無いのだが、刷り込まれた意識はそう簡単に拭い去れない。ううんと困っていると氏政が手付かずの団子を覗き込んだ。
「何ぢゃ、まだ食うておらんのか。これ小太郎、早う食わんか。固くなってしまうぞ」
氏政に促され、小太郎は手ずから渡された団子にそろそろと前歯を立てた。一口齧ると蒸かした皮のふんわりした甘さと詰めてある餡の甘さが広がり、飲み込むとさぁっと咽喉へ溶けていく。普段食しているのが色んなものを丸薬のように押し固めた忍食だから、小太郎は贅沢という美味を知った。
「旨いか」
こくりと頷く。そうかそうかと嬉しげに笑う氏政の笑顔に小太郎の気持ちが漸く和んだ。「これは先祖代々の月見団子じゃ。小田原に豊穣を齎すありがーい団子でな…、」いつものご先祖様の講釈に大人しく耳を傾け、小太郎はもう一口団子を齧った。
手酌でちびりちびりと冷やをやりながら、氏政は月を見上げた。小太郎も月を見る。夜空の一部をまん丸に切り取ったような、そこだけ丸く穴が空いているような、くっきりと浮かぶ満月だ。蜂蜜色した満月の光は今夜はいやに明るい。青い影を作るほど月明かりの強い夜だ。今夜任務があったなら、さぞ隠れるのが面倒だろうなと思いながら見上げていると隣の氏政が密やかに呟いた。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
氏政を見ると、主も微笑を湛え小太郎を見ていた。どこか幼気な瞳をしている。悪戯を仕掛ける童子のようだ。
「知っておるかの。」
小太郎は首を振る。小太郎は読み書きはできるが教養は無い。必要ないからだ。文字だって伝令や密書を読み解く為のもので、風雅を解する為では無い。小太郎にとって知識とは即ち実務のことで教養では無かった。老人はそうした忍びの理由をきちんと知っていて、その上で色々と教えてくれる。それは知識をひけらかしたり、文盲を嗤うためではない。幼子に御伽草子を読んでやる親心にも似た慈しみで溢れていた。小太郎は主の優しさが嬉しい。何の役にも立たない知識が増えていくのが嬉しい。だから、小太郎はいつもじっと耳を傾ける。
「むかぁし藤原道長という天下を取った男が居っての。そやつが詠んだ歌じゃ。この世界をわが世と思い、この満月ように欠けたところが一つもない、とな」
ふと氏政の眼が憂いを帯びた。そうして再び月を見上げる。夜空は変わらず月が支配していた。夜にしては明るすぎる月明かり。どこも歪んでない綺麗な円だ。
「じゃが栄華を極めた藤原一族も、いずれ時勢と共に衰えてゆき、終には滅んでしもうた。望月も明日には欠ける。そうして少ぉしずつ小さくなり、やがて消え行く。終わりは来るのじゃ、必ず」
主は老いた背を伸ばし遠く月を見上げている。小太郎は主が何を言っているのか分かっていた。主は一度は栄え衰退し滅んだ一族と自らの王国を重ねている。世は北条は氏政で最期だと言う。北条は豊穣と謳われた時代は最早遠ざかり、衰えて自ら滅びるか攻められて散るか。国主と同じく老い先短いと揶揄する者さえ居る。小太郎は悔しかったが悲しくもあった。
「終わりは来る。じゃが、それでいいのじゃ」
主がそう言うからだ。
切なそうにけれども穏やかにそう言うから、小太郎は悲しい。
近い未来に北条が滅ぶだろうということを氏政は知っていて、既に覚悟を決めている。諦めではない。足掻いて抗って、ぎりぎりまで生き永らえさせる腹積もりだ。けれども氏政は自分の命がそう長くないのも、時勢が自分に味方していないのも知っている。
滅びの背中は既に見えている。ならば一番遠い背中に正面からぶつかっていく。
偉大なる先祖に恥じない幕引きをするために、氏政は残りの命を投じる覚悟を決めていた。
小太郎も同じ心持だった。少しでも北条が、氏政が生き永らえるのなら、小太郎は命など要らない。生き延びるのが忍びの本懐だという。けれども主が死ぬなら、主を守って死ぬ。倒れ付す寸前に伸ばした手が氏政の背中を押し、そうして一歩でも明日へ進めるなら。それでいい、それがいい。
小太郎は団子をまとめて一口に頬張ると、すっくと立ち上がった。
「? 何じゃ、小太郎」
怪訝な顔で首を傾げる氏政の前に立ち、指を一本立てて肘を伸ばした。その指先が示しているのは、天空の望月だった。氏政の眼がそちらへ向くのを確認して、小太郎はざっと地面を蹴り宙空へ飛び去った。
瞬間、ふっと明りが失せる。くるりと身体を宙で返した小太郎が地面に跪く。胸の前で掌を合わせている。五指の間接を柔らかく曲げて、ちょうど中に虫を捕らえているような形をしていた。辺りが急に暗くなって戸惑っている氏政に気配で所在を伝える。
「小太郎、いったい何を、」
氏政の言葉は最後まで紡がれなかった。小太郎がそっと掌を解くと、氏政は息を呑んだ。
小太郎の掌から眩い光が溢れ出した。その光は暗がりに沈んでいた氏政を小太郎を忽ちに白く照らし出す。よく見ればそれは光の粒子が集合しているのだ。何百何千の小さな粒はそれぞれ光を放ちながら小太郎の手に収まっている。さらさらと指の間から零れては蛍の様に宙を彷徨い、何処かへ消えて行く。
氏政は思わず立ち上がって空を仰いだ。
「なんと、」
空から、月が消え失せている。夜空を我が物で支配していた月は喪失し、隠れていた星々がそっと煌いている。氏政は金壺眼をまん丸くして、ぱちぱち瞬きを繰り返した。小太郎の掌の中、光輝く銀の粒子。
「小太郎、お主まさか、」
―――月を盗りおったか!
笑った気配がした。小太郎は跪いた侭、捧げ持った月の欠片をそっと差し出した。
零れ落ちぬよう慎重に運ぶその手つきが酷く幼くて、氏政はふっと相好を崩した。
(今宵の月を、あなたにあげよう)
(いつか滅び行くものならば、きれいなものをあなたに)