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春景

脇から思考に割り込む形で、最初は少し、斜め後ろに意識が引けているようだった。どちらの痛みか、頭の端が軽く痺れている。
西日だと思っていたのは、男の背後の燭台に灯る炎の色だった。
北向きに設えられた書斎の、古い紙と墨の薫りを纏わせて一日ひやりと冷たい空気の底で、雪崩れた書物に帯を解かれた小袖が散らばる。
「……叔父上？」
手を止めた男の顔を見上げて、潤んだ瞳が不安げに揺れた。剥き出しの肩に振り掛かる淡い色の長い髪が、ひとすじ肌を伝って落ちる。乾いた日なたと草の匂いが鼻腔を掠めた。
（……。）
男は目を細めた。――この人はこんなに幼かっただろうか、それとも彼の人の目にはそう映っていたのか。……いずれにしても俺の知らない、知るはずのなかった光景ではあるけれど。
「叔父上――」
着衣の男の背に縋る少年の細い腕に、腰に回した両脚にも力が籠る。首筋に顔を埋めた男の耳元で、薄く開いた唇に漏れ出る吐息が熱を帯びていく。
「――、」
感情を抑えた低い声が少年の名を呟いた。震える少年の指先が応えるように肩に食い込む。
（……）
借り物の身体の中で、横滑りの反動に男の意識は二重に霞む。過去の現像を有り得ない形で覗き見ているのか、それとも全ては己の歪んだ虚妄に過ぎないのか。
「――……っ……ぇ、」
確かめる術も持たぬまま、掻き抱いた肢体は白足袋の裏を引き攣らせ、上気に染まって溶けていく。咽び泣く浅い呼吸に律動を重ねながら、なのに彼の人の心は冷たく重く厚い鉛に覆われたまま、――どうしてだ、そうしてあんたは何を考えていたのか、先生だってきっとそれを知りたがっていたはずなのに、恨み節を口にしかけた途中で、――いやしかし、さすがに魂までは覗かせちゃくれないか、抱き締めた腕の中、果てた熱に弛緩する感触に男は自嘲する。
「――……」
組み敷く身体はいつかすらりと肉付きを増して、少年のそれではなくなっていた。男は眩暈を覚えた。――そんな、これはあの人の願望で、それとも俺の幻で――、
「――、」
鎖骨に流れる髪を震わせて、薄い胸に微笑する彼の手が見下ろす少年の頬に触れた。――嘘だ、あの人がこんな姿を晒して笑う、それが俺であるはずがないのに、これはやっぱり幻影で、都合のいい俺の夢で、
「――どうして泣いているんですか？」
静かな彼の声が訊ねた。少年は息を啜った。頭の奥が真っ暗に渦を巻いている、ずっとずっと聞きたかった、――先生、どうしてですか、帰るつもりがないのならどうしてあの日あなたは俺と、
それを彼の覚悟だと少年は思おうとした。そう思いたかった。もしかしてこの人なりの罪滅ぼしかもしれないと、そんな風に考えたくはなかった。
（……、）
――あの日っていつだ？　引き潮の眩暈に耐えて少年は頭を振る。――思い出せない、わからない、だけど俺は知っていたから、あの人がもうずっと長いことここではない場所に心を置いてきてしまっていることを、知っていたのに、知っていて俺はあの人を止めなかった、――そんなのヒキョウです、あなたもそうして俺を置いて行くんですか、あの人を責める代りに、あの人のいちばん深い場所に棲み付いている影を、もしも張り替えられるとしたらいましかないと、ほんの少しでも思わなかったとは言い切れない。
（――、）
頬を伝う苦い涙、少年は自問する、――俺は結局、自分のことしか考えられていなかったのか。あの人が最後に思い出すのはどうか自分のことであって欲しいと、到底叶うはずのない達筆の消せない記憶の上に殴り書きしてでも、それでも俺はどうしても、皮肉か縁か、置いて行かれたあなたが欲して知り得なかったものを、俺も同じにこうして今も知り得ずにいる。
「――、」
少年の腕の下、虚ろに揺れる彼の声が少年の名を呼んだ。……俺の？　何の冗談だ、都合のいい改竄だ、あの人がこうして俺の名を呼ぶはずがない、――俺は、そうさ俺自身がそうであっても構わないと思っていた、たとえ誰かの身代わりでも、なのにあのときあの人は他の誰でもなく確かに俺の名を呼んだ。あの人が俺にくれた俺の名前を、ただの音だったそれに文字と意味とを与えてくれた、先生の付きっきりで何度も半紙に墨書した、俺の名前も世界もすべてあの人の光に満ちていた。俺もあの人の全てになりたかった。くだらない（あのときは少しもそんな風に思えなかった）、子供じみた独占欲、俺はどうしてもっとあの人を待てなかったのだろう、物分かりのいいふりで俺はあの人を見送るべきじゃなかったのに、ガキの見栄っ張りで、引き止められる自信がなくて、――だってあの人はもうずうっと長いこと向こうに行きたがっていた、知っていて止める権利が俺にあるのか、俺はどうしようもなくガキで、中途半端にオトナのフリで、ガキならもっとガキらしく、泣いて喚いてあの人を困らせていればよかったのか。
「……」
彼の指先が優しく頬をなぞる。濡れているのは少年の頬で、だから泣いているのは俺で、俺はずっと、今でも前からあのときもそうされたいと願っていた。
「――先生、」
情けないくらいに上ずった声、――いーかげん鬱陶しい、こっから出てけってガキの俺がガンタレてる、――説教はたくさんだ、考えなしのガキはガキなりにこっちで必死に考えてんだ、いちいちおっさんの感傷持ち出されるまでもない、答えがないのもいつか後悔するかもしれないことも、それでも俺はあの日あのときどうしてもこの人をひとりにしたくなかった、――傍にいて、もっと、できるなら境界線なんてなく一つに、だから俺はやっぱり後悔していない。していないと思おうとしているだけかもしれない。わからない。答えは出ない。
しょーもないガキの我儘で、無鉄砲な我の強さで、思い込みの激しさで、あの人は俺の全てで、俺の全てはあの日あのときあの人のためだけにあって、あの人の声が、あの人のくれた俺の名を呼ぶ、それだけで俺の心はどうしようもなく震えて撥ねて弾けそうで、
「……――、」
あの人がいつか誰かに呼ばれたみたいに、俺もあの人の名前を呼ぶ。俺を見上げたあの人が濡れた睫毛で笑ってくれたらそれでいいと思えたから、俺にはそれがあのとき世界の全てだった。


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