ネオ・チネマ・パラディッソ 4
その洒落たレストランは、田舎街の風景に溶け込むように建っている。
まるで大昔からそこにいるような貫禄で、9月の快晴の空の下、いつものように楽しげに、賑やかな匂いを風に乗せて漂わせている。時刻はちょうど正午。
季節の花や香草が咲き乱れる明るい庭の前に、黒光りするハイヤーが、一台停まった。
玄関ポーチから延びる真っ白な石畳の上、降り立ったのは、サマードレスに身を包み、長い髪を靡かせた美女。手には、真っ赤な薔薇の花束。白いドレスと相まって一枚の絵のようなその姿を前に、若い店主は両手を広げて感動を表現してみせた。
「光栄だなあ。世界に名だたる歌姫を、俺の店に迎えられるなんて」
美女はサングラスをとり、エメラルドの瞳を親しげに細める。
「お久しぶり。フランシス。とても、素敵なお店ね」
「ありがとう。君はますます、綺麗になったよ、エリザちゃん」
挨拶にしては若干勢いのありすぎるベーゼを手のひらで押し留め、呆れたように彼女は笑う。
「あなたはちっとも進歩がないのね」
「そうかなあ。まあお兄さんが進歩したかどうかは、うちの料理を食べて確かめてよ」
軽口をたたきながら店主は、クスクスと笑う彼女を眺めの良いテラス席に案内し椅子をひいた。
「ところで、ひとりなの?その薔薇をプレゼントしてくれた人が一緒なんじゃないのかい?」
彼女はその両手に抱えるほどいっぱいの薔薇の花束に視線を落とし、そっと微笑んで、静かに傍らの椅子に置く。
「ひとりよ。これは、今からわたしが贈るものなの」
* * *
「――前言を、撤回するわね。フランシス」
最後の一皿まできれいに食べ終えると、美しい客人は満足のため息をつく。
「ここまでの料理が食べれるなんて、期待してなかった」
店主は当然とばかりに笑う。
「それは良かった。ところでこの街にはどれくらい滞在するの?昔馴染みにはもう会ったのかな」
「――…」
彼女は一瞬、ためらうように黙って、その長いまつげを瞬かせた。
白磁のコーヒーカップのふちを、細い指先がなぞる。
「…2年くらい前からかしら。わたしが、電波にのる規模のコンクールで歌えるようになったあたりから、いつも楽屋に、匿名の花束が贈られるようになったの」
相槌をうつように、それはそれは、と店主は両の目を細める。
「…ひょっとしたら君に恋して息も絶えそうな若い医者がいるのかもしれない」
歌姫は、あら、と目を見開いて顔をあげた。
「あなたも知ってるのね、ずいぶん古い映画なのに」
「まあ一応、俺も映画少年の端くれだったし」
「…そうね。――そうだったわね」
ふいに彼女は、ぐいとコーヒーを飲み干した。
それまでの優雅な振る舞いに似つかわしくない、思いきりのよい動きだった。
「それとは全く別の話なのだけど。わたしね、この街にお医者を訪ねてきたの」
「へえ――…医者を?」
「ええ、プロポーズ、しようと思って」
店主はぶはっと吹き出しかけて片手でばちんと顔を覆った。
動じず美女は前を見据えたまま静かに続ける。
「もちろん、ずいぶん長く会っていないから、彼は私のことなんて、忘れてしまってるかもしれないけど」
「……俺も、それとは全く別の話なんだけどさ」
色々なものをこらえたせいか、若干涙目で口元を笑いに震わせながら、店主が口をひらく。
「この街にもいるよ。初恋の歌姫への想いに縛られて、自分を虐めるみたいに仕事に没頭してる哀れな医者が」
歌姫は、コーヒーカップを下ろしかけた姿勢のまま、ほんの一瞬動きを止めた。
「――フランシス」
ソーサーがカチャンと音をたてた。彼女は白い細い指でテーブルクロスを握りしめ、すがるように店主を見上げる。
綺麗に作り上げた名ソリストの仮面の下に、懐かしいお転婆な少女の顔が透けて見えた。
「本当は少しも自信がないの。わたし、間に合ったかしら。間に合うかしら」
「それは誰にもわからないけど、この間君のお父さんが酔っ払ってこぼしてたな。
貯金をはたいてこっそり君のコンサートに行く度に、必ずと言っていいほど、見覚えのある銀髪が花束抱えてコソコソしてるって」
歌姫は、しずかに両手で口をおさえた。
そして長いこと我慢していた子供がふいに泣き出すように、くしゃりと笑って、両の目からポロポロと、涙を溢れさせた。
* * *
「…ごちそうさま。美味しかった。レストラン、あなたの天職だと思うわ」
夕日に照られた白いテラスで、薔薇の花束を抱え、涙に濡れたままの瞳をキラキラ輝かせて歌姫は笑う。
「ああ、ありがとう。俺もそう思ってるよ」
「…あの映画、最後まで撮れなくて、ごめんなさい」
眩しげに目をすがめたまま、店主はなんの、と笑ってみせた。
「俺らがわざわざ撮らなくたって、君の人生は充分、映画的だ」
Fin.
作品名:ネオ・チネマ・パラディッソ 4 作家名:しおぷ