しずたん
1月の深夜は肌に刺さるような寒さだった。
息の上がった静雄が狭い路地裏の廃ビルに背を預けている。
コンクリートの壁から背中に冷たさが沁み入る。その隣には人ひとり分の間をあけて、同じく荒く息を継ぐ臨也がいた。
「毎度毎度、律儀に追いかけてこなくてもいーじゃん」
臨也は言いながらずるずると壁に背中を預けたまましゃがみこんだ。
池袋に来るといつもこうだ。お約束の追いかけっこ。
しばらく走るとお互い戦意を喪失して、今のような微妙な空気になる。お互い、おそらくこの時間は嫌いではない。
臨也が足元を見ると、何年もかけて地面に浸み込んだ廃油が汚い染みを作っていた。
―――理解している。これは最早ただの確認作業なのだ。相手の視線が自分にだけ向けられているかどうかの。
「手前が池袋に来るのが悪ぃ」
吐いた息が白く路地の狭い空に昇る。臨也は何も言い返さず、不意に沈黙が降りた。走り回って上昇した体温は寒さのせいであっという間に元に戻る。
臨也が顔を上げるとビルの隙間に曇り空が覗く。
ちらちらと雪が降ってきた。
臨也はそれを見て大げさに肩を震わせ、コートのポケットに手を入れた。
珍しく言葉のない空間が、静雄にはどうにも居たたまれない。
胸ポケットの煙草を探した。慣れた手つきで箱から取り出し口に銜える。
火をつけようとしてライターがないことに気付いた。あらゆるポケットを探ってみるがどこにも入っていない。
ライターや煙草を失くすのはそう珍しいことでもないが、今日はあいにくタイミングが悪い。
ますます居心地が悪くなる。黙って立ち去ればいいものを、ぐずぐずと居座ろうとする自分の不自然さを露呈してしまうようで、悔しい。
臨也はそんな静雄を一瞥するとおもむろに立ちあがった。
静雄はまた何か嫌みの一つでも言われるのだろうと顔をしかめた。
しかし臨也は黙って自分のポケットからジッポを取り出すと、火をつけて静雄の口元にまっすぐに差し出す。
なんとなく有無を言わせない臨也の挙動に、静雄は黙って口に銜えたままの煙草を火に近づけた。伏せられた睫毛が灯りに浮かぶ。ワイシャツから覗いた鎖骨の影が艶めかしく揺れるのを、臨也はそっと見た。
煙草に火がついたのを確認して静雄はすぐにジッポから顔を離す。しかし臨也は火をつけたままの姿勢で動こうとしない。小さく揺れる灯りと臨也の顔を交互に見遣って静雄が疑問を投げかけた。
「…んだよ」
この男にしては不自然なほどの沈黙と気遣いに、静雄もどう反応していいかわからない。
臨也は腕時計を確認すると、不思議そうな表情の静雄を見つめ返す。
そのうしろには路地を抜けた先の通りが見える。風俗のうるさいネオンが遠い。
「ハッピーバースデー、シズちゃん」
悪戯っぽく臨也が笑う。いつもの嫌味ったらしさはなかった。
驚きに見開いた静雄の瞳に、灯りがゆらゆらと浮かぶ。静雄は一拍置いて口から煙草を外すと、表情を緩めて目の前の火をフッと吹き消した。
「……サンキュ」
誕生日なんて、言われるまで忘れていた。ジッポの蓋を閉じる金属音。
日付が変わって、1月28日。火が消えて辺りが再び薄暗闇に包まれると、照れてはにかんだ静雄の表情はほとんど見えなかった。