飾らない食卓
フランスが女に振られた。否、正確に言い表すのならボヌフォア氏が女性に振られたのだ。
結構奴は本気のようで「俺は彼女と家庭を持つ!」とまで豪語していたのだから、俺はそうなるだろうと思っていた(なんせ奴がそう言って現実にならなかったことは長い歳月の中、一度たりとも無かったからだ)。しかし、俺の予想を上回り奴の期待を裏切って女性はプロポーズしたフランスを振ったそうだ。
なかなか見所のあるレディーだな、とぼやいたら刃の出されたままのカッターがこちらに飛んできたので必然的に口を噤み、死んだ顔をしてうつ伏せている男を見やる。
髪の毛はボサボサで何日も髭を剃っていない様子の面持ちに、眠れていないのであろう濃い隈がいつも女性をねっとりと眺める目の下に色濃く浮かび上がっていて、どう見ても俺が手に持っている書類に目を通して正常な判断で処置してくれるようには見えなかった。
別に大した内容のものではなく、イギリス本国が直々にフランスへと手渡すものではない。ならば、なぜ俺がそれを持ってきたかといえば単純に女に振られたフランスをあざ笑おうと思っていたのだが、思いのほか重症だったようでからかえるレベルではなかった。
今回のことで相当参ってしまったようで、あの男の口からは考えられないような「愛なんてクソくらえだ」と言った奴の自称するアイデンティティを根本からぶっ壊すような愛の否定を愛の国が繰り返し口にしている。
暴れまわった後の室内は、混沌としていて居心地は良いとはいえない。カーテンは引き裂かれ、陶器やガラス製品はどれもこれも無残な形で散らばっているし、ゴミ箱でもひっくり返したようなありさまの床はひかれているカーペットの姿を覆い隠してしまっている。
別にそのままにしていても良かったのだが、あまりにも汚すぎて思わず手を出してしまった。テーブルにうつ伏せてぶつぶつと何事か呟いているフランスを邪魔だと押しのけて、寝室に押し込んで「その隈が取れたら出してやる」とだけ言い残して放置してきたのが半日前。
なんとかまともな状態になった部屋を見て実は俺って部屋の片づけのエキスパートじゃないかと思い始める。
「腹、減ったな……」
そういえば、無心に(BGMにパンクロックをガンガンにかけてはいたが)黙々と作業をこなしていたので昼食を食いはぐれてしまっていた。
フランスの家だからなにかあるだろうと高をくくり冷蔵庫を開けてみて愕然とした。
「空…だと?」
よくよく考えてみればわかりそうなものだ。あんな状態のフランスが冷蔵庫に食料を入れているわけがない。もし、あったとしてもそれは大概腐れてしまっているのがおちだろう。
「しょうがねぇ、買いに行くか」
溜息とともに財布と上着をひょいと掴み、靴が乱雑に散らばった玄関を通り抜け外に出る。
燦々と降り注ぐ日光の明るさに顔を顰めながら一歩外へと踏み出してふと庭のほうを見ると、室内同様の荒れ様が広がっており俺は気付かないふりをして、門を通り抜けて行った。
「どうせ碌に食べて無いんだろ。ついでに作ってやったからありがたく食え」
と、家に帰ると片付けられたリビングにいた(なにを話しかけても上の空な)フランスを放って、勝手気ままに食事を用意する。いつもなら台所に入るな!と一喝されるがそれもなく、換気扇を回すのを忘れて充満させてしまった黒煙にもフランスは無反応だった。換気扇を回し、皿の上に盛り付けて昼食をボーっとしているフランスの前に並べる。
乱雑に並べられた皿とグラスにナイフとフォーク。俺は腹が減っていたので、無反応なフランスを放って先に食べ始める。ちょっと焦げ臭くて、ジャリジャリしているけど許容範囲内の出来栄えだ。
俺が食事しているのをみてか、奴も腹の空き具合を自覚したようで徐にフォークを手にとってポテトを口に運ぶ。フランスの口からガリっと砂でも噛んだような音が聞こえた気がしたが気にしないことにした。
フランスが無言で咀嚼しているので、ようやく奴も俺の料理の腕が馬鹿にでいないことを自覚したのかと少々誇らしげに思っていると、突然フランスが立ち上がり流し場のほうへ駆けて行った。
俺はまだ食事中だというのに、フランスのほうから不謹慎な音が聞こえて思わず顔を顰めてフォークを皿の上に戻して台所のほうに目をやれば蒼白な顔をしたフランスがこちらを呪い殺しそうな眼で見ているではないか。
あいつ、あんなに顔色悪かったっけ。と数分前の記憶を脳内で浅くってみるが濃い目の下の隈しか印象が残っていなかった。
「イギリス…」
「なんだ?」
「お前は、俺を殺す気か?」
蛇口から水が怒涛のように零れ落ちて流しの上へと跳ね跳ぶ音がリビングにいる俺のところまで響いてくる。
奴は蛇口の栓を閉めるとタオルで口元を覆いながら、恨めしそうな目線をこちらに投げかけて「今回は、いや今回もとびっきりの兵器を生産しやがって」と苦しげに呟いている。
「食材への冒涜じゃすまないぞ、これ」
テーブルに戻ってきたフランスは食卓に並ぶ簡素な食事達を疎ましげに見おろし、ついでそのまま流れるように俺を憐れむような目線で見てきた。
人がついでに食事を作ってやればこの言いようだ。腹正しかったがフランスを無視して(このやり取りを俺達は今まで数え切れないほど行ってきたが、結果はいつも同じなので必然的に俺はお決まりの会話が始まりそうになったら言い返さないようになった)(毎度惨めな思いにされるのはごめんだ)もくもくと食事を続ける俺を、フランスはどこか可哀そうなものを見るかのような目で見ている。
「お兄さんがうまいもの作ってあげるから、それ以上消し炭なんて食べなさんな」
フランスの手が俺の目の前にある皿をひょいとさらって行ってしまい、フォークが空を切りカツンとテーブルクロスにぶつかった。
しかし、皿を取り上げられたことよりも彼が俺の料理を評価した言葉が癇に障り思わず「け、消し炭だと!?」とフォークとナイフを握ったまま椅子をひっくり返して立ち上がる。
寝不足で虚ろで濁った瞳のままのフランスは疲れた様子で「消し炭だろ、これ」と俺から取り上げた皿の中へと視線の落とした。
ぶん殴ってやる、と手持ちの食器をテーブルに置いて拳を握ろうとした矢先にフランスが軽やかに微笑んで一歩後ろに立ち退いた。
「大人しく待っとけよ味音痴大国様?」
そう言って疲れ切った顔をしたフランスは軽い笑い声と共に台所へと姿を消していった。
文句は山ほどあったが、うまいものが食えるのなら御馳走になろうじゃないか―と自分自身になんとか言い聞かせ、倒れていた椅子を戻しどっかりと腰を据える。
喉元まで込みあがってきている言葉の数々をなんとか押しとどめ、普段通りとはいかないが少しだけらしくなった奴の姿をキッチンの中に見おさめて、俺は辛うじて湯気を上げているティーカップを持ち上げて優しくその縁に口づけた。
「で、女のことは吹っ切れたのかい、優男さんよ?」
「ああ。どこかのクソまずい料理のおかげで目が覚めたさ」