揺曳する余薫
冬の日没前なので、丁度小学生が帰路につく時間帯である。車内には軽快なリズムの音楽がかかっていた。
ダッシュボードに『BILLY JOEL』とスタイリッシュな字体で記されているケースが置かれているので、音楽に疎い要でも誰の曲かはすぐにわかった。
「何か買ってく?」
不意に話かけられて、要は驚いたように運転席の東を見た。
「うん?何か買って行くかい。すぐそこコンビニだから」
「いや、いらない、です」
「そう?」
「だって、さっき買ったじゃないですか」
「そうだよね。じゃあいいか」
独り言のように呟いてハンドルを回す東。
要自身こうやって東の車に乗るのは初めてではない。
しかしいつもと違うのは、やはり行き先が東宅だからなのか。妙に運転動作が気になるのだ。
人は、自分の出来ないことを熟す人間に一種の憧れを抱くものである。
車は細い道に入って少し速度を落としていった。
東が、ウィンカーレバーを流れるような動作で動かす。
そんな当たり前の動きにさえ要は目を奪われていた。
極めつけは後方確認だ。駐車する際に上半身を捻ってバックを確認する姿にはつい、鼓動が高まった。
背中と一緒に伸びたシートベルトとか、背もたれに肘をかける仕種とか。
顔の輪郭から首筋にかけてのラインが妙に色っぽいとか。
普段余り気にしないようなことにドキリとするのである。
「はい、到着」
そう言って片手でシートベルトを外し後部座席に手を伸ばす東。ビニールの擦れた音で、要は我に返った。車内にもう音楽は流れていなかった。
「要くんさ、ずっと僕見てたでしょ」
ふふ、と悪戯っ子のように笑って見せた東に要は赤面して黙り込む。
「嫌だな、そんな顔しないでよ」
今度は困ったように笑って、もう一度後部座席に手を伸ばした。その手には要のタータンチェックのマフラーが握られていた。要が受け取ろうと手を伸ばすより早く、東はそのマフラーをふわりと彼の首元に巻いた。
「あ…サンキュ」
にこにこ顔の東をちらりと見て気まずそうにした要に、東は「どういたしまして」と言ってキスをした。