おしゃべりな指先
「はい?」
「そんなふうに見られると、さすがにやりにくいんだが」
指摘されて、はじめて気づいたように。
きょとんとした彼女は、何度かの瞬きののちにたじろいだ。
「え、ごめんなさい。私、そんなにじっと見てた?」
月森は頷く。
彼女は小さく悲鳴を上げて、ごめんなさいともう一度謝罪した。
おしゃべりな指先
演奏中、刺さるような視線を感じた。
いつもならそれほど気にすることもない。
いい演奏というものに、一人だけで到達することは難しい。
学内コンクール期間中に、月森はそれを特に学んだ。
演奏を誰かに聴いてもらう、ということはプラスに働くし、何よりも幸せなことであると感じているが。
今のは、なんというか、射殺されそうだったのだ。視線に。
その線をたどってみれば、ピアノに頬杖をついている日野がいた。
普段はきょろきょろとよく動く黒目が、一点を見つめたまま離れない。
その中心点は、おもに左手に。
生命の小さな危機を感じて、月森は演奏を止めた。
「その、手がね。なんでそんなに動くかなぁって」
「俺の手が?」
「そう。別の生き物みたいなんだもの」
日野はそう言うと、ピアノの前の椅子から立ち上がり、こちらに近づいてきた。
「その、月森くん、ちょっと手、貸してくれない?」
「は?」
「手、ちょっとだけでいいから見せて?」
いやだ、となぜか言えない自分がいた。彼女の言葉には裏がなくて、断る理由を見つけるのがひどく難しい。
渋々と言った感じで、月森が手を差し出すと、そこに食い入るような視線が突き刺さった。
ほんとうに食べられてしまいそうだ。
やや恐れをなして、引っ込めようとしたが時既に遅く。
つかまれてしまったら、もう逃げられない。
しばらく、時間にすればほんの十数秒だと思うが、月森にとっては永遠とも思える間。
月森の手は、彼女のものになった。
ひっくり返され、甲も手のひらも揉まれて、指は一本一本ぐるぐると回される。
最後に指先までたどりついたところで、彼女の指がふと止まった。
「もう、いいだろうか?」
「うん、ありがとう」
彼女は満足げに頷いて、手を解放した。
やっと自分のもとに返って来たそれを確かめて、月森はほっと息をつく。
「……何か、収穫が?」
問われて、答えを探すように彼女の黒目が動いた。
少しさ迷ったあと、まっすぐと月森を目指す。
「月森くんの指って、見た目細くてきれいなのに、指の皮は厚いし骨もしっかりしてるし関節はやわらかい感じで」
「つまり?」
「うん、きちんとヴァイオリンを弾くための指だった」
これは褒め言葉、ととらえてもいいのだろうか。
まっすぐ突き刺さる視線から、月森は顔をそらした。
それで何かを曲解したらしい日野は、ああ、と一人合点する。
不公平だものね、とさらに続く。
時折、彼女から漏れる言葉は月森の理解できる範疇を跳びこえる。
たやすく、軽々と。
「お返しに、月森くんも触っていいよ?」
そう言って、差し出されたのは、手、だった。
その前でどうしていいかわからずに、月森は固まった。
思わず日野の表情をうかがったが、そこに裏側は見えない。
月森は止めていた息を吐き出してから、仕方なく、その手に手を置いた。
きれいな指だ、と思う。
こんな小さな手から、あんな音が紡がれるのか。
むしろ月森のほうが不思議でたまらなかった。
まるで魔法のようだ、と思う。
以前溶けてしまった魔法とはまた違う、軌跡の魔法だ。
だからこそ、月森は感謝せずにはいられない。
小さな妖精と、彼女と音楽を結びつけてくれた、すべてのものに。
自然と指先に力が入った。
どちらかというと昔から言葉にするのは、苦手だった。
音楽以外においても、感情を伝える行為の困難さに、はがゆさばかりを味わう。
今も、きっとこれからも。
「……あ、あの」
顔を上げると、手の先には、耳まで赤くなっている彼女がいた。
月森は余分に瞬きをくり返して、驚いた。
恥ずかしさと戸惑いと、熱。それはすべて、自分のほうが持っていたもののはずなのに。
どうして、彼女が。
「もう、いいかな?」
「あ、ああ。すまない」
月森は慌てて手を離した。
ほっと息を吐き出した日野を見ながら、ここが練習室であったことを唐突に思い出す。
狭い、区切られた空間の中で、視覚も聴覚も、気がつくと感覚すべてが彼女に向かっている。
「えっと、何か収穫あった?」
空気を誤魔化すように、日野の明るい口調が響いた。
それに救われる思いを抱きながら、ふと、月森は開こうとした口をふさいだ。
そんな月森を、彼女の黒目が不思議そうにのぞきこんでくる。
音楽も言葉も一人だけのものではない。触れるだけで、気がつく思いもある。
「―― やわらかくて、気持ちがよかった」
それは、まるで魔法のよう。
目の端から朱色に染まっていく彼女を見ながら、月森はひそやかに微笑んだ。
おしまい