夕化粧の花
薬品独特の匂いで満ちた病院はすごく居心地が悪い。
出来ることなら、ここは来たくはない場所だ。
廊下に設置されたソファーに横になりながら、面会謝絶と書かれた札の下がるドアを眺め
もうどれだけ時間が経ったろう。
ナースステーションの看護士の顔ぶれが代わった所を見ると、それなりの時間だ。
自分でもバカだなぁと思う。
ここで座っていても、なんの解決にもならない。
まして、扉の向こうの彼が急に回復するなんてこともない。
ここで、こうして無駄に時間を過ごす。
なんと無意味で愚かなのか…。
扉の向こうには、数日前にストレガに撃たれた荒垣先輩が意識不明のままで眠っている。
どうしてと、彼を問いつめたい。
けどれ、問いただそうにもチラリとだけ見た彼の体の沢山のチューブは、まるでスパゲテッィみたいだった。
話しなどできるはずもない。
(意識だって…戻らないのに…)
私はリーダーとして全体を把握できていなかった。
外観だけを見て、与えられた仕事だけをこなしていただけだった。
私は彼の恋人だった。
私は彼を知っていた。でも、何も知らないフリをした。
私は本当に彼の恋人だったのだろうか。
(生死の境にいるときに、自分の立場を不安になるなんて最低…)
紙みたいに真っ白な顔
規則的な電子音
沢山のチューブ
むせ返るほどの薬品の匂い
どれもこれも、嫌な記憶にしか繋がらない。
幼い頃の事故で、私だけが助かった記憶。
目覚めたときは病院で既に両親は死んでいた。
兄だけが無事だと言われた。
連れてこられたICUでチューブまみれだった兄。
小さい頃も今と同じように私は扉の前にいた。
ソファーの上に、横になってずっと扉を眺めていた。
そのうち扉が開いて、私の名前を呼んでくれると。幼い私は信じてた。
だけど…私がほんの少し、ICUの前から離れている間に。
その兄も死んでしまった。
あっけなく。とてもあっけなく、私は独りになった。
「…だから離れられないのかな…」
早く帰りましょう、荒垣先輩。
帰って、ご飯を作って、他愛もないことを話して…それから…
「ぅ…」
声を出して泣きたくなるのを堪えれば、喉が苦しく伸縮した。
泣いて泣いて、そろそろ枯れてしまうじゃないかと思うくらい泣いても、まだ出てくる。
「ここにいたのか」
頭の上から声が聞こえて、見上げてみれば真田先輩が立っていた。
起き上がろうとすれば、そのままで良いと、先輩はソファの端に腰をかけた。
何を話すわけでもなく、ただ沈黙だけ。
二人で、ただ扉を見つめ続けるだけ。
「…荒垣先輩が、死のうとしてること」
先に口を開いたのは私。
「…気付いてて、気付かないフリをしたんです…。私、自分の事しか考えなかった…自分だけ、しか」
沢山話しをしてた。
時々感じる違和感を繋げば、ぼんやりだけど見えたはずなのに。
天田くんとのことだって、違和感ばかりだったじゃない。
分かったはずなのに。
その違和感を口に出したら、本当になってしまいそうで。
全部分からないフリをした。
「ったく、そのうち干涸びるぞ。お前」
「干涸びた、い」
自分の声は思った以上に震えている。
干涸びてカラカラになって、この現実から逃げ出したい。
なのに、頭の中で「なぜ動かなかった」と「どうしてもっと」がぐるぐる回って体に蓄積する。
足の爪先から頭のてっぺんまで、隙間なく埋め尽くて吐きそうになる。
コツンとおでこに冷たいものが当てられた。
視線を動かせばスポーツ飲料のペットボトル。手をのばすのが億劫で、そのままにしていると
溜め息が聞こえた。
「アイツ、お前の事よく話してた…。危なっかしいとか、面倒見てやれとか…。こー、眉間にしわ寄せて口を尖らせて」
「…」
「…いつも…無理をさせるなと、言われてた」
「…」
「お前は、何もしてないわけじゃない…。寮を出てってから今まで、俺はアイツを…あんなに穏やかに笑わせてやれなかった。
さっきお前が言った事、全部そっくりそのまま返す。俺は何もしなかった。
出来たはずなのに、向き合わなかった…。寮に連れ戻してきさえすれば、元通りなる。
そうやって誤摩化したんだ」
「そんなことッ」
「ない、って言えるか?」
勢いよく体を起こすと、グラリと脳が揺れた。
それを堪えて真田先輩を見れば、少しだけ目が腫れているように見えた。
「…これ。お前が見つけてきたんだってな…」
金属音がして、先輩に差し出されたのはガラスの割れた懐中時計。
荒垣先輩がなくしたと言ったものを、私が見つけてきた。
何に対しても執着を見せない先輩が、ほんの少しだけ見せた執着のようなもの。
いつだって先輩の視線の先にあるのは生ではなくて、真っ暗な死。
彼の口からで出てくる未来の話しに、彼自身はいつもいなかった。
どんなに近くにいようと、あっけなく消えてしまいそうだから、いろんな理由を付けて傍にいた。
- 一緒に食べましょう、先輩!
ご飯なんて言い訳で
- 先輩が好きです!
好きすら言い訳で
あっけなく死んでいってしまいそうなあの人に
なんでもいいから杭を打って繋ごうとした。
「時計に弾があたらなければ、おそらく即死だったろうと…」
私も真田先輩も、荒垣先輩の危うさに気が付いていた。
心の何処かで気が付いていたから、なにかで縛り止めようとした。
先輩は寮に連れ戻す事で。
私は恋人になる事で。
「…即死じゃなくたって…あっけなく死んじゃうんですよ…」
受け取った懐中時計は規則的に音を刻んで欲しくても、歯車が歪んでしまって動かない。
言い訳ばかりの私の中で、ちょっとずつ形を成し始めていた感情。
だけど、私はそれすら言い訳に使った。
未成熟で、本当かどうかも分からないような感情に名前をつけて
あの人への杭に使った。それが…
「先輩…恋、ってなんですか」
誰にも明確な答えなんて言えなくて、数学みたいに綺麗に公式化できなくて。
「お、れに…聞かれても困る」
ほんの少しだけ。
出会ってからほんの少しだけしか時間を共にしなかった。
だからこそ傍にいたかった。
だからこそ近付きたかった。
なのに、あの人は私の方を向いてはくれなくて
なのに、あの人は私を遠ざけてばかりいて
出会って芽生えた感情に名前が付く前に、消えてしまおうとする。
だから無理矢理名前をつけて、杭にして打ち付けて
私の方を向かせた。無理矢理、力ずくで。
好きかどうかなんてわからなくて
これが恋かどうかなんてわからなくて
ただ、傍にいたかった。
ただ、笑ってほしかった。
「まだ…ない…」
重たい体を動かして、開く気配のない扉に近付く。
過去の事なんて知らないけれど、何があったかも知らないけれど、違和感だけはずっとあって。
ようやっと違和感の理由を知ったら、彼は死にかけだ。
「まだ、なんにもできてないッ。ねぇ!これからなんだよッ!これからやっと」
- 全部動き出すのに
ここが病院でなければ手当り次第に壊して叫んで暴れたい気分だ。
強く握った拳は白くなって、口の中に鉄の味が広がる。
「おい、佐伯ッ」
真田先輩が、扉を壊す勢いでへばりつく私の名を呼び引きはがす。
「は、やく…はやく起きてよぉッ」
出来ることなら、ここは来たくはない場所だ。
廊下に設置されたソファーに横になりながら、面会謝絶と書かれた札の下がるドアを眺め
もうどれだけ時間が経ったろう。
ナースステーションの看護士の顔ぶれが代わった所を見ると、それなりの時間だ。
自分でもバカだなぁと思う。
ここで座っていても、なんの解決にもならない。
まして、扉の向こうの彼が急に回復するなんてこともない。
ここで、こうして無駄に時間を過ごす。
なんと無意味で愚かなのか…。
扉の向こうには、数日前にストレガに撃たれた荒垣先輩が意識不明のままで眠っている。
どうしてと、彼を問いつめたい。
けどれ、問いただそうにもチラリとだけ見た彼の体の沢山のチューブは、まるでスパゲテッィみたいだった。
話しなどできるはずもない。
(意識だって…戻らないのに…)
私はリーダーとして全体を把握できていなかった。
外観だけを見て、与えられた仕事だけをこなしていただけだった。
私は彼の恋人だった。
私は彼を知っていた。でも、何も知らないフリをした。
私は本当に彼の恋人だったのだろうか。
(生死の境にいるときに、自分の立場を不安になるなんて最低…)
紙みたいに真っ白な顔
規則的な電子音
沢山のチューブ
むせ返るほどの薬品の匂い
どれもこれも、嫌な記憶にしか繋がらない。
幼い頃の事故で、私だけが助かった記憶。
目覚めたときは病院で既に両親は死んでいた。
兄だけが無事だと言われた。
連れてこられたICUでチューブまみれだった兄。
小さい頃も今と同じように私は扉の前にいた。
ソファーの上に、横になってずっと扉を眺めていた。
そのうち扉が開いて、私の名前を呼んでくれると。幼い私は信じてた。
だけど…私がほんの少し、ICUの前から離れている間に。
その兄も死んでしまった。
あっけなく。とてもあっけなく、私は独りになった。
「…だから離れられないのかな…」
早く帰りましょう、荒垣先輩。
帰って、ご飯を作って、他愛もないことを話して…それから…
「ぅ…」
声を出して泣きたくなるのを堪えれば、喉が苦しく伸縮した。
泣いて泣いて、そろそろ枯れてしまうじゃないかと思うくらい泣いても、まだ出てくる。
「ここにいたのか」
頭の上から声が聞こえて、見上げてみれば真田先輩が立っていた。
起き上がろうとすれば、そのままで良いと、先輩はソファの端に腰をかけた。
何を話すわけでもなく、ただ沈黙だけ。
二人で、ただ扉を見つめ続けるだけ。
「…荒垣先輩が、死のうとしてること」
先に口を開いたのは私。
「…気付いてて、気付かないフリをしたんです…。私、自分の事しか考えなかった…自分だけ、しか」
沢山話しをしてた。
時々感じる違和感を繋げば、ぼんやりだけど見えたはずなのに。
天田くんとのことだって、違和感ばかりだったじゃない。
分かったはずなのに。
その違和感を口に出したら、本当になってしまいそうで。
全部分からないフリをした。
「ったく、そのうち干涸びるぞ。お前」
「干涸びた、い」
自分の声は思った以上に震えている。
干涸びてカラカラになって、この現実から逃げ出したい。
なのに、頭の中で「なぜ動かなかった」と「どうしてもっと」がぐるぐる回って体に蓄積する。
足の爪先から頭のてっぺんまで、隙間なく埋め尽くて吐きそうになる。
コツンとおでこに冷たいものが当てられた。
視線を動かせばスポーツ飲料のペットボトル。手をのばすのが億劫で、そのままにしていると
溜め息が聞こえた。
「アイツ、お前の事よく話してた…。危なっかしいとか、面倒見てやれとか…。こー、眉間にしわ寄せて口を尖らせて」
「…」
「…いつも…無理をさせるなと、言われてた」
「…」
「お前は、何もしてないわけじゃない…。寮を出てってから今まで、俺はアイツを…あんなに穏やかに笑わせてやれなかった。
さっきお前が言った事、全部そっくりそのまま返す。俺は何もしなかった。
出来たはずなのに、向き合わなかった…。寮に連れ戻してきさえすれば、元通りなる。
そうやって誤摩化したんだ」
「そんなことッ」
「ない、って言えるか?」
勢いよく体を起こすと、グラリと脳が揺れた。
それを堪えて真田先輩を見れば、少しだけ目が腫れているように見えた。
「…これ。お前が見つけてきたんだってな…」
金属音がして、先輩に差し出されたのはガラスの割れた懐中時計。
荒垣先輩がなくしたと言ったものを、私が見つけてきた。
何に対しても執着を見せない先輩が、ほんの少しだけ見せた執着のようなもの。
いつだって先輩の視線の先にあるのは生ではなくて、真っ暗な死。
彼の口からで出てくる未来の話しに、彼自身はいつもいなかった。
どんなに近くにいようと、あっけなく消えてしまいそうだから、いろんな理由を付けて傍にいた。
- 一緒に食べましょう、先輩!
ご飯なんて言い訳で
- 先輩が好きです!
好きすら言い訳で
あっけなく死んでいってしまいそうなあの人に
なんでもいいから杭を打って繋ごうとした。
「時計に弾があたらなければ、おそらく即死だったろうと…」
私も真田先輩も、荒垣先輩の危うさに気が付いていた。
心の何処かで気が付いていたから、なにかで縛り止めようとした。
先輩は寮に連れ戻す事で。
私は恋人になる事で。
「…即死じゃなくたって…あっけなく死んじゃうんですよ…」
受け取った懐中時計は規則的に音を刻んで欲しくても、歯車が歪んでしまって動かない。
言い訳ばかりの私の中で、ちょっとずつ形を成し始めていた感情。
だけど、私はそれすら言い訳に使った。
未成熟で、本当かどうかも分からないような感情に名前をつけて
あの人への杭に使った。それが…
「先輩…恋、ってなんですか」
誰にも明確な答えなんて言えなくて、数学みたいに綺麗に公式化できなくて。
「お、れに…聞かれても困る」
ほんの少しだけ。
出会ってからほんの少しだけしか時間を共にしなかった。
だからこそ傍にいたかった。
だからこそ近付きたかった。
なのに、あの人は私の方を向いてはくれなくて
なのに、あの人は私を遠ざけてばかりいて
出会って芽生えた感情に名前が付く前に、消えてしまおうとする。
だから無理矢理名前をつけて、杭にして打ち付けて
私の方を向かせた。無理矢理、力ずくで。
好きかどうかなんてわからなくて
これが恋かどうかなんてわからなくて
ただ、傍にいたかった。
ただ、笑ってほしかった。
「まだ…ない…」
重たい体を動かして、開く気配のない扉に近付く。
過去の事なんて知らないけれど、何があったかも知らないけれど、違和感だけはずっとあって。
ようやっと違和感の理由を知ったら、彼は死にかけだ。
「まだ、なんにもできてないッ。ねぇ!これからなんだよッ!これからやっと」
- 全部動き出すのに
ここが病院でなければ手当り次第に壊して叫んで暴れたい気分だ。
強く握った拳は白くなって、口の中に鉄の味が広がる。
「おい、佐伯ッ」
真田先輩が、扉を壊す勢いでへばりつく私の名を呼び引きはがす。
「は、やく…はやく起きてよぉッ」