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雨が降れば鳥は飛べない

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また求めるものではなかった、と盗み出した宝石を早々に返品していつものように翼を広げて飛び出した空には少々物騒なものが待ちかまえていた。不意を狙われたとはいえ対応が遅れたのはどう言い繕ったところで失態であり、なんとか逃げ切り安堵した途端に轟いた雷鳴にもうはなすすべもなかった。みるみるうちに勢いを増した大粒の雨を受けて最早これ以上の飛行は無理だと判断した時、頭は既に相当濁っていたらしい。、ふらふらと墜落の様相で着地した庭は理性でなく本能が選んだ場所で、いくつか確保している安全なアジトではない事に驚いたのは暫く経ってからだ。無節操に荒れた芝生の上に蹲る。ざあざあと身を打つ雨は一向に弱まる気配がなく、泥まみれになって這いつくばりながら目の前にある丈の短い草が雨粒を受けて倒れる様をぼんやりと眺めていた。その間にも冷たい水が体温を奪っていって、ざあざあざあざあ降りしきる音に機能することを放棄した思考は何も感じず、だからぴしゃりと跳ねた水が誰のせいかなんて分からなかった。深緑の芝生を踏みつけ、一歩、また一歩と近づいてくる黒の革靴。ズボンの裾には泥が飛んで少しばかり汚れていた。目だけを動かしてのろのろと視線を上げた先には黒い傘で身を守りながら、静かに此方を見下ろす眸がある。今夜は見なかった目だ。その不在にほっと胸を撫で下ろし、そして仄かな苛立ちを感じた蒼がそこにある。
ふう、と彼は息を吐くと徐に手を伸ばし倒れ伏したままの腕を掴んだ。そのまま上体を引き上げ、気が付くと彼が身体の下にあった。不恰好ながら、背負われているのだと理解する頃には彼はドアを潜っていた。靴を脱ぐ際に屈んだ彼を覆い隠すように泥に汚れたマントが広がる。びちゃり、と床に落ちた茶濁に僅かに眉を顰めた彼はしかし無言で、強引に靴を脱がせるとどろどろになった白を引き摺る。肩を支えられながらずるずると向かった先はどうやら浴室のようで、脱衣スペースまで来た彼は怪盗の白い上着の襟を掴んだ。そのまま服ごとたっぷりと張られた湯の中に放り投げられた。一瞬の浮遊感の後、ばしゃん、と盛大な水音があげてぬるま湯に沈んでいく。ぶくぶくぶくぶくぶくぶく。苦しくなってもがくと水面から顔が出て、大きく息を吸い込んだ。ぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返して咳き込みながら彼の方を向く。じっと此方を観察していた彼は目が合うと少しだけ肩を落とす息を吐いて、くるりと背を向けた。


風呂から出ると彼のものらしい着替えが用意してあった。新品の下着は、わざわざ買いに行ったのだろうか。好意に甘えて身に着ける。雨と湯でびしょ濡れのマントやタキシードは手で絞り、洗濯機を貸してもらうことにして一先ず盥の中に放り込んだ。逡巡しながら恐る恐るリビングへ足を向けると、3人掛けのソファの真ん中を陣取った彼は普段どおり本を開いている。彼の前のテーブルには呑みかけらしい珈琲と、ほんのりと湯気を立てるマグカップがひとつ。此方を見むきもしない彼の隣に越しかけ、冷め始めたココアを頂戴した。熱いとぬるいの中間のような温度の甘さがほわりと口の中に拡がる。あったかい。
「……腕」
「え、」
「沁みたか?」
「…。かなり」
「そうか」
銃弾の掠った左腕の跡に気付いていたのかと少し驚きながら苦情も籠めて素直に答えた。未だにじくじくと疼く傷は血こそ出ていないものの、跡形なく完治することは難しいだろう。似たような傷は他にもいくつかあるのだから、別に今更気にすることでもない。ず、とココアを飲み干して空になったマグをテーブルに戻した。隣でぱたんと本が閉じられる。組んでいた足を戻した彼は上体を捻る形で此方を向くと、至極丁重な繊細なものを扱う仕草でそっと手を伸ばしてきた。白いシャツの上から僅かに血漿の滲む傷に触れるか触れないかの辺りをそうっと窺う。小さく眉を顰めて包帯が要るな、と呟くとさっさと立ち上がり、傍にあった本棚から救急箱を取り出してきた。その間にシャツを捲り上げておいた腕を再度さし出すと、手早い動作でぐるぐると包帯が巻きつけられる。案の定、慣れた手付きで数分も経たずに銃創は白に覆われて見えなくなった。捲くっていたシャツを元に戻し終えると急に疲労感が押し寄せきた気がしてつい苦笑すると、彼が小さく口を開いた。呟きは微かなものだったが、けれどしっかりと耳に届いてしまっていて、思わず見つめた蒼は少しだけ揺れていた。たまらなかった。
手を伸ばして肩に触れる。一度着替えたのだろう、濡れていないシャツは淡く彼の体温を伝えて温かい。ずるずると掌を滑らせて最後に掴んだ手首は想像よりも細かった。どくり、と鼓動が聞こえる。彼の方へとゆっくり体を傾けながら零した息はどこか熱っぽい気がした。悪い兆候だ。喉の奥でくつりと笑いつつも、軽く顰められた眉の刻む小さな皺を見止めてそっと眼を伏せる。
「膝を、貸してもらっても?」
「……好きにしろよ」
そのまま身体を倒し、肉付きの薄い太腿に頭を乗せた。目を閉じて追う感触は然程良いわけはなかったが、しかし驚くほど心地よく無防備なくらいに全身の力が抜けていった。ほぅ、と吐いた息の深さがその感覚を増長させる。甘えるように軽く頬を擦り付けると戸惑う指先が遠慮がちに毛先を梳き、ぼんやり目を開けると彼にしては珍しい不安定な表情がそこにある。薄い唇が躊躇うように2、3度開閉を繰り返して、やはり惑いながら開いた。右の目尻を辿る彼の指がカツンと硝子に当たる。
「…これは?」
何でもないことのように、努めて平静を装って出された問いに胸の中をじわりと熱い感情が広がっていく。しかし奔流に飲み込まれるには棄てられないものが多すぎた。喉元にせり上がる昂りを嗤いながら、乾いた唇に笑みをのせる。
「そのままでお願いします、名探偵」
その呼称を口にしたのは一種のけじめであった。彼の眸にちらついたのが、切なさであればいい。
「そうか」
静かに瞬いた蒼からは、もう揺らぎは消えていたけれど。
作品名:雨が降れば鳥は飛べない 作家名:なぐち