猫
聴こえてきた音に、ぴくりと耳を動かす。
――かえってきた。
「ただいま、三上…なんだ、珍しいな」
普段は絶対に出迎えなんかしないけど、今日に限って玄関まで出てやったのは、こいつの足音がいつもと違ったからだ。やけにゆっくりで、そういえば今朝の様子もなにやらおかしかったと思い出す。
『別にお前を心配してるわけじゃない』と示すため、低く唸ってみせる。
少し血の気の引いた疲れた顔が、申し訳なさそうに笑んだ。
「ごめんな、腹が減ったんだよな。遅くなって悪かった」
だらだらとした足取りで台所に向かう渋沢の、少し後ろをついて歩く。
見上げれば、いつも姿勢の良い主人は少しだけ頭を垂らしていて、見るからに具合が悪そうだ。
飯を皿に盛った後、奴はおれが食事を終えるまで隣に座っていた。
立てた膝に腕と頭を乗せ、ぼんやりとした顔でずっとこちらを見ている所為で落ち着かない。お陰で何度も何度も奴の顔色を伺わなければいけなかった。
食べ終えると、渋沢はおれの頭を少し乱暴に撫でてから、途中で何度かよろけながらベッドに横になった。まだあいつは何も食べてない。
滅多に一緒に寝てやることなんて無いのに、それでもおれが自由に通れる様にと、奴はいつも寝室の扉を開けておく。今日もそうだ。妙に苛々して、尻尾を床に叩きつける。
ベッドから少し離れたところに座って、渋沢の色の悪い横顔を見遣る。太い眉が寄せられて皺が出来ている。少し開いた唇から漏れる息は荒い。
暫く近くをうろついて起きないのを確認してから、布団の上に飛び乗る。柔らかな羽毛布団がぼふりと乾いた音を立てた。
頭の近くに寄り、顔を覗く。寝顔でさえ辛そうに歪めている主人は少しも起きる気配がない。
傍に寝転んで渋沢の左肩に頭を乗せた。ほんの少しだけ呼吸が楽そうになったのは、気の所為だろうか。
そのまま目を閉じ、小さく喉を鳴らした。
おれが人間だったら、飯を作ってやったり、部屋を温めてやったり、風が通らないように扉を閉めることだって出来るのに。
音を立てないように、尻尾を何度も揺らした。
カーテンの隙間から陽の光が差し込み始めた頃、渋沢は目を覚ました。
時間を確認しようと身体を動かしかけ、その肩に掛かる重みに気が付く。
目をやれば、黒い三角の耳がぴくぴくと動いた。見覚えのあるそれは正しく。
「……三上?」
飼い猫が左肩に頭を乗せて、真っ黒な毛の生えた腹を静かに上下させていた。
「…珍しいな…」
一緒に寝ることはおろか、抱くことすら滅多にさせないこの猫が、何故自分と同じ布団で寝ているのだろうか。
常に無い空腹感を覚え、その理由に至った。そういえば昨夜は体調が悪く、餌をやったあと食事もせずに直ぐ横になったのだ。
自然、笑みが浮かぶ。
「心配してくれたんだな…ありがとう」
そっと右手で頭を撫でてやると、眠っていて尚、満足そうに息を吐く彼をいとおしく思う。
空っぽの胃は暫く放っておくことに決め、渋沢は三上が目を覚ますまで、稀有で幸せな朝の一時を堪能した。