さよなら、恋心
彼のオフィスは美しいくるみ材の大きな机にも飾られたアンティークのティカップにも、長い歴史がそこここに刻まれていてとても安らげた。
そこが新しい職場になった時、私はまだカレッジを出たばかりのほんの子供で、それでも彼はそんなに年上には見えなかった。年の頃としては20代前半、それもかなりの童顔だ。きりっとした眉の下の済んだ緑の宝玉は子供のように大きく小さな唇は血色良く薔薇の花弁のようだ。
ただ私の資料を眺め、とてもとても懐かしそうに目を細めて「大きくなったなあ」と苦笑交じりに独り言を呟いた時だけはその姿に記憶の遠くに居た祖父の姿が重なった。
お祖父様の昔話によく出てきた国の象徴という人の姿をしながらも人にあらざる妖精の物語。こうして目の当たりにして初めて、ああこの国はこんなに美しいのかと誇りのようなものが湧き上がった。
「これから宜しくな」
はにかんだ笑顔を守らなくてはと強く心に誓った。
ところで彼のオフィスには来客が少ない。
基本的になんやかんやと忙しくしていてワーカホリック気味の彼であるが、外交的な仕事は首相と共に官邸で行われるか、もしくは陛下と共に王宮にて行われることが多いのだ。そういう意味では仕事と言いつつも寛いだ空間ではあるらしい。
今度ソファを仮眠できるようにもっと大きくて寝心地のよいものに変える為に予算を組んで貰おうともっぱら彼の当直室になりつつある客間を通り過ぎようとして、その珍しい来客の姿があることに気がついた。
「アロー」
「また貴方ですか」
隣国の象徴だ。彼だけは別。なんやかんやと顔を出す。ビジネスの話をしに来ているだけではないようで――とはいえ、確かにここ数年、彼国と共同の事業が増えてきているのも事実だ――今日も仕事に来たとは思えないラフでお洒落な出で立ちで彼は新人が煎れたお茶を優雅に堪能していた。
「こんなところで油を売っているとまたアーサー様にどやされますよ」
「おー一端に言うようになったねーお前」
最初出会った頃はほんの少し年上に感じていた彼の容姿は10年経った今でも時間を進めることはなく今では少し私の方が年上然とした見た目をしている。なのにその蒼い瞳は全てを見透かしたように底知れない。
「坊ちゃん、もう三日も私邸に帰ってないでしょ」
取り立てて急ぎの仕事があった訳ではない。時々彼はなにか嫌なことがあるとそれから逃避するように仕事場に篭もりきりになる傾向がある。
最初のうちこそ私もその身を案じ帰宅してきちんと休むよう進言したものだったが、彼の精神安定上必要なことなのだと察してからはあまり言わなくなった。代わりに仕事場でもリラックスできるようにすることが使命だと感じていた。
そう言われて確かに既に彼が人を遠ざけて執務室から出てこないのがもうそんなに時間が経っていたと気がついた。
「そろそろ回収に来る頃かなと思って」
悪戯めいた仕草で優雅に首を竦める姿が様になっていて憎々しい。
「貴方にそんなご心配して頂かなくても結構です」
「お前、最近あいつに似てきたね」
私達よりも深くまるで彼の全てを知っているような振る舞いをする。軟派で気紛れで我らが愛する主君を翻弄する。何もかもが気に入らない。
心に湧くこの苛立ちの感情は恋情に於ける嫉妬によく似ていた。
「さて…それではお兄さんはお兄さんの仕事をしますか」
乾くばかりの口の中からは咎める言葉も禄に出てこなかった。
それは7月のある日であったり2月のある日であったり。
頻繁な出来事なので目にするのはこのオフィスでは働き出せば時間の問題だ。
がっしりとしたウォールナットの木目に凭れた体に覆い被さる背中。何事か甘い言葉を吐きながら、若しくは口汚く罵り合いながら繰り返される睦言。薄く開いた扉は頑丈といえただの木板一枚なのに、そこに横たわる時間という壁が私達を彼らから遠ざけた。
外套を手渡しながらその横顔を探る。
根を詰めすぎて窶れた頬の青白さが見て取れる。
「お帰りになられるのですか?」
隣国は一足先に彼の私邸に戻っていったらしい。なにやら言い争う声は聞こえていたが結局彼の勝利に終わったことは判明した。
「ん、ああ…お前たちも悪いな。付き合わせちまって。暫く休みでいいから」
弱く笑った。とても強くてとても儚い存在。
「…私達は貴方の傍に居られることが嬉しいのです」
そっと腕を回せば怒られるかと思いきや優しく抱擁を返された。暖かい温もりを持つ、我々となんら変わりがない体なのにその存在理念は根本から違う。永劫の時を生き、死の訪れない孤独を思った。
「有難う。俺もお前達が居てくれてとても助かっている」
国を、国民を愛するのは彼らにしたら本能だ。どんな国民も等しく愛しい、母のような慈愛の眼差しで彼はよく口にする。その度に劣情が後ろめたく狼狽える。
「でも貴方の一番傍に居られるのは、あの方なのですか?」
ぎくりと強張った背筋の動揺は弄れた彼の根元にある素直な心をよく表している。いつも貴方を見ていた。どんな些細なことも見逃さないようにただひたすら見ていた。
それでも人間の時間ではとても足りない。
「すまない――」
思えば初めての恋は実らないと誰かが言っていた気がする。
祖父だっただろうか。
視線を逸らすのではなく見据えて告げられた詫びの言葉は苦いながらも彼が繰り返される痛みから逃げない強い人なのだと教える。この国に生まれて良かった。
そんな幼い恋の終焉だ。
「…ほんとハワードとよく似ている」
歪めた表情にふと珍しく心から楽しそうな笑顔を浮かべて彼は私の肩に顔を埋めた。
「祖父も貴方のことが…?」
「ああ、そんな世界が終わったみたいな顔して…」
喉の奥で笑いながら祖父を思い出してとても優しい声で。
添い遂げることは無理でも彼の中にきちんと残っていくだ。私も祖父も。
「まだ生まれたばかりだったお前を連れてここに来てくれた時は本当に嬉しかった」
腕に抱いた小さな新しい命はこの国の未来なのだ、と。
少し泣いているようだった。
「なら私も早く子どもを作って更にその子どもがまた子どもを作って」
人間にはなんでもない命のリレー。それは彼らには渇望しても得られない神秘の奇蹟だ。祖父が父を遺しそして私が生まれたように。続いていく。
「きっとまた貴方のことを愛してしまう奴が一人や二人現れるのでしょうね」
「ああ…楽しみにしている」
「それでまたあの人と貴方に嫉妬するんだ」
別にあいつはそんなんじゃねえよ、と拗ねた子供のような言い訳が繰り返されるのだろうか。そう考えるとあの人も難儀な人に惚れたものだ。
「恐れながら――」
最後の接吻を乞う言葉は甘く舌の上に溶けた。