あのキスを忘れない
―――あの女(ひと)と過ごした時間を、俺は忘れない。
その頃、俺はあるアニメにはまっていた。
印象的な台詞とシーンが沢山あって、俺はそのひとつを、あの女(ひと)に言ってみたことがある。
「ガラス越しのキス、アリな人?」
朝の出勤時、マンションの入り口でわざわざ待ち構えた。再現するようにガラスに片肘から先を突き当て、けれど高性能のそこを通すのにかなり声を張った。
幾許か面食らったようだったあの女(ひと)は、もちろん怪訝な顔をして、いい歳してアニメになんかはまるな、と溜め息を吐いた。
「全く…あんな中二病全開な作品、どこが良いのかしら」
ぶつぶつと毒を吐く唇の上で、瑞々しく濡れたルージュが輝く。
それを眺めつつ、中二病を調べたらしいことに感心していた俺は、彼女の前で作品の話題を口にしたことが無かったことに気づく。視聴したことも無い。
「何だっけ、アレ。あの合い言葉…」
「綺羅…っ、」
「ああ、そうそう!それね!あはは、ご丁寧にポーズまでありがとう!」
「貴方………っ」
込み上げる笑いを堪えて、美しく歪んだ顔を覗き見る。苦虫を噛み潰したような、悔しげに俯く面差しは、僅かに紅潮し、うっすらと涙まで浮かべていた。
高校時代、こんな子が隣のクラスにいたら、きっと、喜んで窓越しに口説いただろう。
そう思うことに、俺はもう、慣れていた頃だった。
「君って、本当、何ていうかさ…」
可愛いね。
語尾は、やって来たエレベーターの電子音に融け、彼女に届いたのか、俺にはわからない。
♂♀
それから、月日は流れ、秋が数回巡った。あのアニメはとっくに終了し、そんな作品があったことさえ忘れた頃の、ある夜のことだ。
不意に、いや―――必然として、それは訪れたのだった。
自室のベッドで眠っていた俺は、何故かパチリと、実は起きていたかのごとく目を覚ました。まるで、呼ばれるように。
けれど、暫し耳を澄ましても、静寂は静寂でしかない。何ら変わりない暗闇に、俺は俺の異常性だけを改めて認識し、再度身体を横たえた。
―――そのときだった。
コツリ!
微かだけれど確かな、鈍いけれど頑強な、音。
その部屋に唯一嵌め込んである、小さな窓。出所はどうやらそこで、断続的に響くそれに、俺は枕元のナイフを右手に、そろりと近寄った。
どうしたものか。警戒する俺の鼓膜に、細いけれど硬い声は滑り込む。
「………臨也」
「!」
数時間前に帰宅したはずの、あの女(ひと)だった。
彼女がここにいるのは、不思議ではない。暗証番号は既知、鍵も所持している。ただ、こんな時間で無ければ。
何か起きたのだろうか。考える前に、彼女は高いけれど柔らかな声で、どこか可笑しそうに、また俺の名を呟いた。
「…どうしたの」
「臨也、あのね…私、………」
長い、けれど恐らくは十秒にも満たない沈黙が支配する。
思うのだ。あの瞬間、俺が部屋を出て、あの女(ひと)を抱き締めていたなら、何かが変わっていたのではないか。
考えるのだ。どうして俺は、あの瞬間、動くことも話すことも出来なかったのか。
だけど、あの瞬間、俺は窓越しのあの女(ひと)をただ、待つことしか出来なかったのだ。
「………ねぇ。ガラス越しのキス、アリな人かしら?」
―――ああ、そうか。
そして、全てを理解した俺は、ナイフを落として、
「アリな人、だよ」
笑った。
触れたガラスは、冷たかった。
ちゃんと重ねられたかも、自信が無い。
窓には、いつものルージュの跡は、残っていなかった。
―そう、化粧をする余裕も無かったの。
これでは、あの女(ひと)が口づけたのかも、わからない。
わからない、わからない、
あんなに穏やかな、"日常"の夜だったのに。
何が俺の正しい幸せかもわからなくなるような、そんな、ありふれた素晴らしい夜だったはずなのに。
わからない、わからない、わからない、
―――本当は、何ひとつ、わからなかった。
♂♀
わからないまま、月日は流れ、あの女(ひと)のいない秋を繰り返した。
彼女の料理の味も、体温も感触も匂いも、声も、何ひとつ忘れないまま、新しい秋が訪れる。
どういうわけか、また夜だった。
不意に、いや―――必然として、それは訪れたのだった。
自室のベッドで眠っていた俺は、何故かパチリと、実は起きていたかのごとく目を覚ました。まるで、呼ばれるように。
けれど、暫し耳を澄ましても、静寂は静寂でしかない。何ら変わりない暗闇に、俺は俺の異常性だけを改めて認識し、再度身体を横たえた。
そして、諦めに伴う充足感と共に、台本に綴られたような台詞を、虚空にぽつりと吐き出したのだった。
『あのキスを忘れない』
―――そのときだった。
「何か、言った?」
背中越しに、遠慮がちに囁かれる、声。次いで感じる、違う、体温。柔らかく、それでいて、しなやかな、感触。
ゆっくりと寝返りを打ち、少し不安そうな顔に掛かる一房の黒髪を、丁寧に摘み耳に掛ける。そのまま耳朶を擽ってやると、少女のような、けれど艶めいた笑いが零れた。吐息は、甘やかに匂う。
「ん…っ」
「可愛いね、って」
「………もう」
恥ずかしそうに、悔しげに俯く面差しは、紅潮し、涙が盛り上がっていた。
大丈夫だと、わかっていると言い聴かせるように、頬に右手を添える。もうナイフは、必要無い。
「ガラス無しのキス、アリな人?」
「っ、貴方…!」
笑い、俺は目蓋を閉じた彼女の温かな唇に、確かに唇を重ねた。ルージュなど要らない。もう彼女とのキスに、そんな鮮やかな証明は不要だ。
そんなもの無くても、彼女とのキスからは、たったひとつの痛みさえ生まれない。
―あれが、最初で、最期だ。
何ひとつ変えることは出来なくても、俺の隣には、彼女が存在する。そして、全てを理解した俺は、それでも、何度だってあのキスを思い出すのだろう。
忘れない、とは、そういうことなのだ。
「ありがとう。君のことだけ、愛してる」
俺は、久しぶりに呼ぶことを許された名を、紅い頬を伝う雫に溶かした。
―ああ、明日、君の作る鍋が食べたい。
変わらず野菜が嫌いな俺に、君は何と諭してくれるだろう。どんな顔を見せてくれるだろう。
こんな、わからない、なら大歓迎だ。
楽しみで仕方がないよ、ねぇ、―――
―――この女(ひと)と過ごす時間を、俺は忘れない。
作品名:あのキスを忘れない 作家名:璃琉@堕ちている途中