復讐者
安物のライターを擦って、煙を吸い込んだ。なんともいえない苦味が広がる。
(最初はこんなまずいもん吸うぐらいなら禁煙するって思ったけどなぁ)
人間というのは慣れるものだ。ニール・ディランディは薄暗い天井に向けて紫煙を吐いた。内乱の続くこの国じゃ兵士に支給される煙草ひとつでさえ贅沢品だ。
ゲリラ兵を率いるリーダーの男が、ニールに投げ寄越した1ケース。チップだ、受け取っといてくれ。おそらくなにげない餞別だったのだろうが、もしかしたらこのまずい煙草を吸ってこの国の抱える苦味を知っておいてくれという気持ちもあったのかもしれない。本当に、苦い。本当に。
対抗勢力のヘッドの暗殺。AEUと人革連の境目に位置する欧州の小国で。狙撃手のたった一発の銃弾で、内乱情勢を傾けようとする。
武力に対する武力。こうした一種の武力介入は、ニール・ディランディの天才的な狙撃技量を聞きつけたアンダーグラウンドのエージェントが寄越してくる仕事のひとつだ。
「5日後のAM9:20。ターゲットは車でこの将軍の家を訪れる。情報部員が命をかけて奪取した情報だ。この一回しかない。必ず仕留めてくれ」
ターゲットの顔写真と取り巻きらの情報、周辺の衛星写真にざっと目を通しながら、ニール・ディランディは少しの笑みを浮かべてうなずいた。見た目には線の細い優男なので、笑みさえ浮かべれば相手に悪い印象を与えることはまずなかった。14才から一人で生き抜いてきた、安易な処世術。
指示を出した男もニールにつられたように笑い、それから、赤に黄色のラインの入ったパッケージを投げ寄越したのだ。兵士たちのためにつくられた、苦味のきつい煙草。
あちこちにひび割れの走るコンクリート造りの廃屋、むき出しの鉄骨に腰かけ、吸い飽きた煙草を床に落として踏みにじる。
少し離れた場所にある開放された窓、その下方にはすでにニールの愛機がすべてセッティングされ重く暗く静かにその時を待っている。
不謹慎かもしれないが、楽器に似ている、とニールは思っていた。硬質に光るグランドピアノ、なめらかな木目調をたゆませるコントラバス。幼い頃、親に連れられ弟妹たちと見に行ったオーケストラ、そこで見たあの鉄と木材の集合体。
(音を出すって点でも似てるな)
ただしニールの楽器は音を発した時には命をひとつ奪っている。幼い頃に見たあの楽器たちは、音でだれかの命を奪うことはなかったはずだ。
革グローブの下、手首に巻いた時計をみる。7時半。渡された端末に反応はない。ミッションプランはこのまま遂行される。
ニールは静かに窓辺に歩み寄り、腹這いになってスナイパーライフルの銃身に腕を沿わせた。
利き目でスコープを覗く。丸と十字、その真ん中に赤い点。着弾点となるそこに、今はごく平凡な屋敷の玄関先が映っている。早朝の街は薄い気配で青い。
スコープを覗き込んだまま、右手を一度ぎゅっと握って放す。握るたびに神経が集まって研ぎすまされる感覚がある。そうして指をトリガーに這わせれば、一切の雑事が去り、銃身と自身とターゲット、世界はそれだけに集約される。
その瞬間、ニール・ディランディは世界のすべてから解放される。
腹の底に沈殿する憎しみ、怒り、復讐心。それらは現在のニール・ディランディを形成した根幹。家族からの慈愛によって組み立てられた骨格が、復讐と怒りによって肉付けされ、ごまかすための少しの笑みという皮をかぶって。
自分の無力を憎み他者の武力を憎み、神を運命を世界を呪った。そうして己も武力を握った。
人は慣れる。さびしさにも孤独にもわななく怒りにも虚無にも銃身の冷たさにも煙草の苦味にも。
ニール・ディランディが2時間後に放つ一撃は、必ずひとりの命を喰い殺す。それによって内乱が終結に向かうのか、国が救われるのか、それともさらなる怒りと憎悪の渦に誰かを巻き込むのか。
ニール・ディランディはそれを関知しない。彼は純然たる復讐者だ。
彼にとって意味ある一撃はたった一度だけ。復讐をとげる一発。体内に沈殿し蓄積する憎しみ、怒り、復讐心、それを終わらせる一発だけ。