あんまり月が綺麗だから
その縁側に並んで座る青年が二人。
一人は艶やかな黒髪に漆黒の瞳、もう一人は少しくすんだ金髪に深緑の瞳。
対照的な容姿の二人は空に朧げに浮かぶ月を見上げ、杯を傾けていた。
「今日は朧月ですね。」
黒髪の青年が金髪の青年に向かって言う。
「霞んで見える月のことをそういうのか。」
「そうです。はっきり見える月も素敵ですけど、これはまた違った味わいがあっていいでしょう?」
「…俺の国には月を見る習慣がないから不思議な感じだ。日本人は本当に月が好きなんだな。」
金髪の青年は感心したように言う。
「そうですね…月を見るのは長い時をかけて培われてきた文化ですから。平安時代の貴族たちも月を見るのが好きでしたよ。」
「古くから続く文化、か…。日本は伝統を大切にするんだな。」
「イギリスさんだってそうでしょう?古き良き時代のものを大切にするのは。…まぁ、日本人はそうでもないかもしれません。新しいものが大好きですしね。」
「伝統を重んじるのも、新しいものを積極的に取り入れるのも、その両方が日本人ということじゃないのか。」
「私も、私の国も、どんどん新しいものを取り入れ今まで発展してきました。でも最近は新しいものが入ってくるスピードが早過ぎて、正直戸惑っています。新しいものを自分のものに、自分の文化にする時間が足りないんです。このままでは昔からあったものをどんどん忘れてしまいそうで…いえ、すでに何か忘れている気がするんです。」
黒髪の青年は顔を伏せた。
その顔を窺うことは出来なかったが、声には苦悩と焦燥と少しの諦めが滲んでいた。
黒髪の青年の言う『忘れている何か』とはひっそり山奥へ行った河童や、今もこの家にいる着物姿の少女のことだろうか、と金髪の青年は思う。
「それは俺だってそうだ。きっと忘れていることさえ忘れていることだってあるんだろう。でもそれは仕方のないことじゃないか?長く存在すれば全てを覚えているというのは難しいだろうからな…。」
「でも私は……いえ、なんでもありません。少々感傷的になってしまったようです。」
私は、の後に続く言葉を金髪の青年は考えた。
全てを覚えていたい、なのか、仕方ないで済ませたくない、なのか。それとも、もっと違う言葉だったのか。
感情を隠すのが上手く、控え目な黒髪の青年のことを、金髪の青年は好ましく思っていたが、このようなときばかりは寂しいと思った。
「なぁ日本。言いたいことは言っていいんだぞ。思ってることをもっと言葉にしていいんだ。俺だって話を聞くくらいは出来るぞ。」
「ええ。」
「アドバイスとかは出来ないかもしれないが…それとも俺じゃダメなのか?」
「そんなことはないです。ありがとうございます、イギリスさん。」
それは感情表現の苦手な黒髪の青年の、心からの言葉だった。
黒髪の青年は空を見上げた。
「こんな話を知っていますか。明治時代の日本のある翻訳家は『I love you』を『わたし、死んでもいいわ』と訳したそうです。」
黒髪の青年が急に話を変えることは非常に珍しいことだったので、金髪の青年は驚いた。
それと同時に、黒髪の青年が自分から話をしてくれたことを嬉しく思った。
「それで通じるものなのか?」
「この場合は、相手から『愛しています』と言われて、それに返す言葉をこう訳したそうです。愛している、と言われてそれに同じ言葉を返すのは無粋だと思ったのかもしれませんね。」
「日本語は奥が深いな…日本人にならそれで通じるということなんだろう?」
「当時なら通じたのでしょうけれど…現代では無理でしょうね。あれから時代はずいぶん変わりましたから。」
手元の盃に視線を戻し、黒髪の青年は寂しそうに笑った。
「古き良き時代の遺産…か…。」
「ええ。他にも『I love you』を『愛している』と訳さなかった小説家がいましたね…日本人ならそんなふうには言わない、と言って。」
黒髪の青年はどこか懐かしむような顔をした。
「あの頃が懐かしいのか。」
「ええ、まあ。怒涛の時代でしたけれど…。」
「そうか…。」
そう言ったきり、二人は口を閉ざした。黒髪の青年も金髪の青年も、何を言えばいいのか分からなかったし、何も言わなくていいような気もしていた。
金髪の青年は月を見上げ、黒髪の青年は杯に映った月を見つめていた。
沈黙を破ったのは金髪の青年だった。
「…なあ、その小説家はなんと訳したんだ?」
「なんでしたかね…ずいぶん昔のことなので…。」
黒髪の青年は空を見上げた。
「ああ、イギリスさん。月が綺麗ですね。」
そう呟いた黒髪の青年の、艶やかな微笑みを見ていたのは月だけだった。
作品名:あんまり月が綺麗だから 作家名:akito