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幾千光年の孤独

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胸が腐り落ちてしまいそうなほど甘い匂いに満たされた室内。
さほど広くはない、家具も生活感も無い無機質な部屋にその香りは些か不釣り合いだ。

「なあ、帝人」

口の端についたカスタードを肉食獣のように舐めとりながら、男は言う。

「いい加減、くれよ」

白い肌が薄暗い室内で動くのを男はぎらつく瞳で確認した。じゃらりと金属の音が聞こえる。
何か言い返してこないか、或いは諦めて首を縦に降りはしないかと僅かな期待を持って目の前の獲物を見つめた。締め切られたカーテンの隙間から漏れてきた街灯に、男の獲物である少年に付けられた首輪が鈍く反射する。

「なあ、帝人―――、」

男は枯渇しきった声で少年を呼ぶ。
この部屋に攫ってきてからもう一週間、その間ずっと鎖付きの首輪に自由と尊厳を奪われ続けている割には自我を保っている少年に苛立ちが募っていた。手にしていたシュークリームを少年に向かって投げる。強く投げつけたつもりはなかったが、軟い皮は少年の頬に当たり無残にもその中身をぶちまけた。露わになった鎖骨の上をカスタードがどろりと伝う不快感に少年の眉が僅かに寄ったが、どうやら男には見えないようだ。

「さっさと諦めろよ」

早く、早く諦めればいいのに。
今日何度目か分からない舌打ちが一つ、落ちた。
少年は男―――平和島静雄を怖がらない。そのことがこんなにも自分を苦しめるなど、静雄は予想していなかった。
甘い匂いを纏った少年に確かな欲情を抱きながら、静雄はそれを押しこめるようにプリンを口に運んだ。





静雄は昔から異常な程の暴力とそれを上回るほどの不器用さで何もかもを破壊しつくしてきた。壊して失ううちに何もかもを諦めて、触れなければいいのだと思うようになってきた。孤独になったのではない、自ら孤独を迎え入れたのだ。そう思うことで自我を保つほかなかった。そして一人暗闇で消えぬ寂しさに身を持て余すままぼんやりと佇んでいた時に出会ったのが少年―――竜ヶ峰帝人だ。帝人を知って静雄は触れたいと願った。愛したい好かれたい手に入れたい。自分だけのものにしたいもう孤独はうんざりだ、そう思った時に気がついた。
どうすれば帝人を壊さずに手に入れる事が出来るのだろう?

「諦めて、俺に抱かせろ」

薄い胸に、細い腰に、自分の全てをぶつけたい。下世話な言葉で率直に言えば帝人の直腸に自分の精液を溢れるほどにぶちまけたいという野蛮でしかし切実な願いをいつしか彼は抱くようになっていたのだ。しかし性欲に支配された彼の脳味噌が有り余る力を制御しきれるのかどうかと聞かれれば答えは否。力の暴走は誰にでも予想はつくことだった。
自分に憧れ以上の想いは寄せていない少年を押し倒したとして素直に股を開くわけがない。ちょっと抵抗されでもして、血の上った頭で無理矢理服を剥いだ途端に帝人が事切れている可能性だってある。逃げようとした身体を引き戻して力強く揺さぶった拍子に脳震盪、気絶で済めばいいが白目を剥いた人間を抱くのは出来る限り避けたい事だった。
ならば仕方がない、抵抗の無いようにするしかない。帝人自身が服を脱いで静雄に跨って、静雄さん愛していますと笑えば。ついでに腰も振ってくれれば流石の自分も優しく、傷つける事無く少年を抱けるかもしれない。仕方がない、攫って鎖に繋いで飼って了承させてしまえば―――狭く偏った知識しかない脳味噌は犬以下の答えをものの数秒で導き出し、その二日後に帝人は静雄の部屋で首輪を頂戴する羽目になったのだ。

「…」

静雄がプリンを食べ終えても帝人からの返事はなかった。この部屋に連れてきてからというもの、帝人は全く喋らない。抱かせろと凄んでみせても身動ぎ一つしない。日に日に募る焦りとは裏腹に、冷静なままの少年が憎たらしく、どこか恐ろしかった。

「無理矢理されたら、なあ、お前死んじまうかもしれないだろ」

プラスチックの箱を開ければそこにはショートケーキがあった。残念ながら今日のデザートはこれが最後だ。
本当はシュークリームを食べ終えたあたりで帝人も頂こうと考えていたのだけれど、とうとうそれは叶わなかった。思ったよりも頑固な少年に、この際もう―――、そう思ったとたん手の中の苺がつぶれた。ぐしゃりと小さな音を立てて、手のひらを紅い果汁が伝って床に落ちていく。
ああ、駄目だ、きっと。
床の染みを絶望的な思いで見つめながら、静雄は息を吐く。
帝人はこれよりもずっと脆い。もし万が一身体は静雄の暴力に耐えられたとしても、心が追い付かないだろう。きっとぐしゃりとつぶれてしまうに違いない。

「なあ…頼むから、諦めてくれよ」

縋る様な声になっている事に、静雄は気がつくことはない。

「頼むから…」

この孤独から救ってくれ。その言葉を飲み込んで、静雄は部屋を出ていった。
もう一件、片づけなければならない仕事があった。




まだ駄目、まだ―――。

「お預けですよ、静雄さん」

上手に『待て』たら、ご褒美をあげる。
それまでもう少しの間、先の見えない孤独に、愛されていないのではないかという不安に苛まれて一人苦しめばいい。
躾は忍耐が勝負だよなあ、甘い匂いだけが漂う部屋で誰に言うでもなく呟いて、少年はにっこりと笑った。
作品名:幾千光年の孤独 作家名:卵 煮子