風邪
慎重に扉を開け、辰巳は恐る恐る顔を覗かせて室内を盗み見る。何時もは、怒鳴り声より先に飛んでくる拳が無断の侵入を諫めるというのに、その気配はない。
辰巳はそっと室内に入る。湿り気を帯び熱の籠もった空気が肌にまとわりつくようで、息苦しく感じた。
荒く小さな呼吸音を辿り、ベッドサイドへと近寄る。辰巳の存在に気付いていないのか、掛け布団からはみ出た頭部は動きを見せない。眼は閉じられたままで、頬はひどく赤らんでいる。口達者で一方的に辰巳を責め立てる唇は、少しだけかさついていた。
お姉ちゃんは風邪を引いて寝込んでいるから騒いじゃあ駄目よ、母親に言われた言葉を思い出し、辰巳はにんまりと笑う。散々辰巳を甚振ってきた美咲が弱って動けないというのだから、日頃の恨みを晴らすチャンスだと思ったのだ。
(ふはははは!俺は今無敵だぜ!)
腰に手を当て、意気揚々とズボンのポケットからマジックを取り出す。水性ではなく油性であるあたり、俺って悪だなと悦に入りながら、キュポンとふたを外した。
額に肉は定番と、調子っぱずれの口笛吹き吹きマジックを美咲の顔に近付ける。かすかなシンナーの匂いにも風邪で鼻がつまっているのか、美咲は反応しない。心中でだけの企みさえ目ざとく気付き、何もしていない内から鉄拳制裁を繰り出す美咲が、後ほんの少しでマジックの先と額が触れ合うというところまで近付いても、信じられないくらい無防備なのだ。
辰巳は先程までの浮かれた表情を、唇を尖らせた憮然としたものに変化させた。
つまらない。気に食わない。
弱っていると見せかけて油断させたところで問答無用にプロレス技をかけてくることもなければ、筋が通っているのかよくわからない美咲論をぶちかますわけでもない。本当にたんに寝込んでいるだけという姉の姿は、辰巳にとって違和感しかなかった。
辰巳が一度も勝てた例のない美咲が、たかだか風邪なんかのせいでこんな風になるなんて、日頃負けっぱなしの辰巳の立場がないではないか。
マジックにふたをして、そこら辺に放り投げる。辰巳はベッドに頬杖をついた。
(俺は正々堂々とした良い人だからな!仕方がないからこの勝負、預けといてやるぜ!)
へっと格好つけて笑ってから何時の間にか寝入っていた辰巳が、だいぶ具合が良くなった美咲によって発見されたマジックのせいで散々な目にあわされるのは数時間後のことである。