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【No.6】逃亡

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暗闇の中からいきなり飛びだしてきたものに、何故か犬たちは吼えなかった。
だから相手が強盗とか、小金欲しさに忍び込んできた浮浪者でないことは判る。
蝋燭の明かりを片手に近づけば、案の定薄暗い壁際に座り込んでいるのはネズミだった。
「何しに来たんだ?」
「……いや、ちょっと…」
「食うもんならないぞ。さっき今日最期のクラッカー食べちまったからな」
「…腐りかけのクラッカーが欲しいんじゃない」
「じゃあなに?」
 息が僅かに乱れている。ここまで走ってきたのか、それとも──
「血の臭い」
犬並に鍛えた鼻が、その臭いを拾い上げた。ネズミの体からだ。
この平穏や治安とは無縁の西ブロックで、人が血の臭いを纏わせて歩いたって、誰一人振り向いたりしない。町中、どこもかしこも血臭や死臭が溢れているから、みんな鼻が鈍感になっているからだ。
ケンカ、強盗、かっぱらい、カツアゲ、リンチ、夫婦げんか。なんでもこい。
ただ、そんなゴタゴタに、あの温室育ちのお坊ちゃんならともかく、この死神のごときネズミが巻き込まれ、ケガを負うなんて珍しいことだ。
「ひどいのか?」
「…かすり傷だ」
「じゃあ、何しに来たんだ?」
改めてイヌカシは聞いた。
「血」
「え?」
「止まるまで…かくまってくれ」
「は? 誰から?」
「聞くな」
ネズミは答えない。けど、なんだか怯えているようだった。
この死神みたいな奴がだ。怯える? 誰に? うっそだろー?
「おいおい、厄介ごとはごめんだぜ」
「そんなじゃない」
「じゃあ自分ちに帰れよ。もめ事の宅配はごめんだ」
「帰れるか! あんなトコに!」
「へ? あんなトコって…」
周りにいた犬たちがクウンと鼻を鳴らしたのはその時だ。
戸口の方に数匹いっせいに顔を向ける。これまた警戒心の強い連中が、まったくこの場を動かないのは、相手が見知った奴だという証拠だ。
だが一人だけ動いた。いや、飛び上がった。そして縋り付いてきた。
「か…かかかかかくまってくれ! 金なら出す!」
「ネズミ?」
いつも冷静沈着を絵に描いたような奴が、剛胆不敵を文字に書いたような奴が、本気で怯えている。まったく訳が分からない。
「たのむ! 銅貨…いや、銀貨一枚出す! だから早く俺を…」
戸口から入ってきた、ネズミの脅威の源は、タタタタと軽い足取りで走って来たかと思うと、大きな声を上げた。
「いた! こんな処に!」
「紫苑?」
「ぎゃぁー!」
ぎゃあ? ネズミがこんな声?
「やだなー。探したんだよ! 君がケガしてるってハムレットが教えに来てくれて、急いで現場に行ったら、ケンカはとっくの昔に終わってるって言うし、野次馬の話では君がケガしてるって聞いたからもう、僕、いても立ってもいられなくてあっちこっち探し回ったんだぞ!」
「ケガ! してないしてない! 断じてしてないから!」
「嘘つき。そんなところにへたり込んでるくせに。脚? 腰? 背中?」
「ぎゃっ! やめろ! 触るな近づくなあっちいけ!」
「ダメだよ。ケガはちゃんと治さなきゃ!」

二人の攻防を、イヌカシは茫然と見ていた。
紫苑の心配性は今さらだが、ネズミがこんなに狼狽しているのは初めてだ。
いったい何にそんなに怯えているのか。
「助けろー! イヌカシ!」
「い、いや、治療は…してもらったほうがいいんじゃね?」
「よくない! お前、こいつの治療を知らないからそんな無責任なこと言うんだ!」
「ひどいな。いつも丁寧にやってるじゃないか」
「どこが! ニマニマ笑いながら注射打ったり、眼を半月にしながら傷の具合見たり、心底楽しそうに縫合するのがか!?」
「………」
イヌカシは、正直ちょっと腰が引けた。ネズミにではない。明るい笑顔の紫苑からだ。
「失礼だなぁ。いつも僕に出来うる限り丁寧に治療しているってのに」
「あれの! どこが! 何でもかんでも、本の紙でうっすら筋くらいの傷でも、ストーブで指先火傷しても、蚊に刺されても、ぜんぶ『じゃあ縫おう』っていうののどこが!」
「痛みがないように貴重な麻酔も使ってるし、縫合痕も残らないように慎重にやってるよ? ねぇイヌカシ。聞いてよ。ネズミってば生傷絶えないから嬉し…いや、大変なんだよ」
青年は逃げ場を失ってジタバタしているネズミの片腕をむんずと掴み、片手で頬を撫で、にっこり笑顔で言った。紫の眼が期待と興奮とにキラキラしているのは気のせいか。
「心配しなくても、君の綺麗な肌に、縫合痕なんて絶対に残さないから」
「あ…ああああんた! 12才の頃よりマニアックになってる! 絶対なってる!」
「そう。僕も成長したんだ」
「こんな方向に成長するなぁ! 方向性、間違ってる!方向性!」
「そんなことないよ。郷に入らずんば郷に従えっていうだろ? 言うなれば、西ブロツク流?」
「そんな流派、ねーから!」
「君が流派の師匠だよ」
「教えてねーっつーの! や、ややややめろ! 触るな!」
「ネズミ」
ふぅ、と紫苑は溜め息一つ。ネズミにだけ聞こえる声でぼそりと呟いた。
「あんまり暴れると、この口、縫うよ」
ピキン、と見開かれた灰色の眼が固まる。絶叫が止まった。

「じゃ、帰ろうか。ぁ、イヌカシありがとうね。お邪魔しました」
礼儀正しくぺこりと頭を下げる青年に、いえいえ、なんのおかまいも出来ず。と返す間もなく、よっこらせと紫苑はネズミの体を肩に担ぎ上げる。
まだ少年ぽさが残る顔なのに、なんだこの怪力は?
いや、ネズミが軽すぎるのかも知れない。身長は紫苑より高いくせに、手足とか腰の細さはイヌカシでも驚くほどだ。
脚にケガをしていたら、確かにここから歩いて帰るのは難儀だろう。
青年の肩に荷物のように担がれて、茫然とした顔で、必死の灰の目で、全力の懇願でイヌカシに伝えてくる救難信号を、イヌカシはサクッと無視した。

「家に帰ったら、じっくりたっぷり、縫合してあげるから、もうちょっと我慢してね。力河さんのツテで、モノフィラメントの5-0が手に入ったんだ。君のためにって言ったら彼、ナイロンザイルを持ってきそうだったから。僕のためにとお願いしたんだよ。手術糸なんて、クロノスならともかく、ここでは手に入れるの苦労したんだって。間に合ってよかったよ」

い、いやぁぁぁぁぁ───!!

紫苑の妙に楽しげな話し声に交じって、声にならない悲鳴が、聞こえた。聞こえた気がする。気がするけど、うん、気のせいだな。そうだその通りだ。
他人の不幸に首も脚を突っ込まないのは、西ブロックで生き抜く者の鉄則だ。

あふぅ、とあくびをひとつして、イヌカシは愛する犬たちを見下ろした。
「そろそろ寝るか」
わうん、と犬たちも答える。
こいつらも、イヌカシに負けず劣らず西ブロックの流儀が染みついた生え抜きだ。

まぁネズミもちょっと可哀想だと思ったから、次回、奴が転がり込んできたら助けてやろう。
もちろん、銀貨3枚でだ。
作品名:【No.6】逃亡 作家名:しい