隣人に語らう言葉を
俺はなんでもない、と言いつつ、ところで、と本題を切り出した。
「いってなかったっけ。俺随分前に引っ越したんだよ。」
「知ってたよ。」
「そう?ならいいんだけど。先日のことは災難だったよね。まさか俺がこうやってまた君の家にくることになるとは思ってなかった。」
俺は先日(池袋を出てまもないころだ)の静雄との一件を思い出してくく、と笑った。静雄の手に握られていたカップにひびが入って笑うのをやめた。なぜだかしばらくここにいたくて、彼の怒りを恐れた。
「こうして君の顔を見に来たんだ、責任感じてるってことで許してよ。」
「面白くてきてんだろうが。わざわざこんなところまで。」
「そうそう、池袋まで。」
しばらくにこにこと笑っていたところで、静雄は思いがけないことを口にした。
「なんで新宿なんだ。」
俺は唖然とした。静雄の真意がわからなくなったのだ。
理由はとても合理的なものだったし、新宿以外ならいいのか、新宿ってそんなにだめな場所だったか、と思いめぐらせる。いや、そういう意味じゃないことくらいわかっている。
真剣にこたえることはなんだか億劫だった。
「しばらくして、きちんと暮らせるようなお金がたまったら引っ越して、そこでまた色々と商売して、たまったら引っ越して、誰も知らないところを転々としたくてね。そういうことはシズちゃんにはない?」
たまにだけど。と臨也はつけたした。静雄は口をはさまない。聞いていないのかもしれないが。臨也は手に持ったコーヒーカップを口につけた。空になっている。ほんの少しのむなしさを覚えて、からん、とこれはまたむなしい音をたててそれを机に置いた。
静雄はしばらく沈黙している。どう答えたものか、と彼にしては少し、躊躇しているのかもしれない。俺には実際はこういう願望はなかったかもしれない。俺も、彼の質問に答える明確な言葉を見つけられなかったから、こんなことを言ったのかもしれない。静雄はいや、と低い声でつぶやいた。
「ねぇよ。」
「そう。」
そういうところが、俺は嫌いじゃない。また、思った。
誰もが知っている自分に辟易しているのはほかでも彼で。望まない力を持って、望まない俺という存在の近くにいて、どこかにいってしまいたいと思わないのは、さすがに彼らしかった。そういう彼を嫌いじゃなかった。どこまでも強かった。弱いところを持っているくせに。俺はわざと明るい声をだして冗談みたいに言った。
「ま、俺だって、誰も知らないところへ行ったってどうせ、2カ月もすればみんな知ってるようになって、そんで、シズちゃんがやってきて、繰り返す。ときどき飽き飽きして、どこかにいきたくなって。」
「じゃあ、今のところで金がたまったらまた、いなくなるのか。」
静雄は笑わなかった。俺はさっきまで嘘ではりつけた笑顔をどこにしまえばいいかわからなくて不自然な表情をしていたかもしれない。
意味を、理解できなかった。静雄は、お前はまた、いなくなるのか、ともう一度言った。
だからどうだというのだ。だから、どうだというのだ。
俺はからからにかわいた喉で、唇で、静雄、と言った。
発音された音はまるで生まれたばかりの声帯が紡いだみたいに、未成熟で、滑稽で、いままで散々殺されてきた言葉だった。
ああ、今日俺はここまで来て、その言葉を聞きたかった。俺ばかりがなにかお前がいない寂しさをかかえているわけではないと。