侵食
毎日毎日、とにかく五月蠅くて、口から生まれたみたいにベラベラ喋り続けている彼にも、稀に無言になりたいときがあるらしく、それが今日この時間らしい。
彼女が出勤してもノーリアクション。眼前のパソコンのディスプレイを冷たく睨んだまま、無言。
(ああ、『そう』なのね)
コートをハンガーに掛けたり、専用のパソコンを起動させたり、洗濯機に汚れものを放り込んだり、それなりに物音をさせても、彼は只管、黙ったままだった。
掛けると途端に嫌味なインテリ仕様になる眼鏡のフレームの奥、切れ長の瞳を細めた彼の眉間には、皺が寄っている。あまり美しくないな、と思いつつ、彼女は洗濯機のスイッチを入れた。
静かな洗濯機でも、音は響く。メールをチェックしつつ、彼女は、何で自分はこんなことをしてやっているのだろうとぼんやりと考えた。けれど、答えが出ないので、考えるのを止めた。
マニキュアの載った爪が、キーボードを叩く指に合わせて差し込む光を乱反射させる。初めに比べると随分と様になったピンクとホワイトのフレンチネイルは、未だ無言を貫く彼が好きだと言ったのだった。
例えば、カレーは辛口より甘口が好きだとか。雨だと傘を差すのが面倒だから晴れて欲しいとか。綾波よりアスカ派だとか。レモンやオレンジの爽やかな香りより、薔薇やジャスミンの甘ったるい香りが好みだとか。同じレースなら、黒のガーターベルトより、白のベビードールの方がそそるとか。彼は何に対しても、饒舌なのだ。
キーボードのタッチ音が交差する。気づいて盗み見れば、相変わらず口を噤んだままの彼が、指を動かしていた。せわしなく動くそれが、長くて器用で、存外優しいことも、彼女は知っている。
ピーッ、と洗濯機が仕事を終えたことを告げた。彼女は洗濯物を干すべく、席を立った。
彼は黙って携帯電話を操作している。その眉間には依然皺が寄ったままで、彼女は、やっぱり美しくないなぁと感じた。
ベランダは若い陽の光で大分暖まっていた。うっかり、うつらうつらしてしまいそうな朝だった。
衣服を干し終わり眺めた新宿の街は、活気を帯びていた。だが、滅多に感情の動かない彼女をして、面白そうな人間がいるとは欠片も思えなかった。彼には、きっと何倍も強くそう感じられるだろう。
ああ、だから彼は、池袋に行くのかも知れない。今度ついて行くと言ったら、彼はどんな表情(かお)をするだろう。
想像して彼女は、どうかしているなぁと小さく笑いを込み上げさせた。
戻ると、彼はデスクに長い脚を載せて組みつつ、分厚くて大きな本を広げていた。頁を繰っては読み、また繰っては、何事かを考えているようだった。
壁に設置された時計の針は十時を少し過ぎたところだった。そろそろ、良いだろう。彼女は思い、キッチンへ向かった。
昼食は何が良いだろうかとか、だったら夕食はどうしようとか、そんなことを検討する内に湯が沸騰する。
(良い色…)
作業を終え、後は運ぶだけになった。仕上げに彼女は、四角く固められたグラニュー糖をトングで摘んだ。ひとつ沈めて、迷わず、ふたつ目を入れる。そして、ティースプーンで丁寧に掻き混ぜた。
再び、彼はパソコンを見据えていた。顎の前で組んだ指は微動だにしない。
彼女は構わず、デスクの右横のスペースにソーサーに乗せたカップを置いた。特に何も返りはしない。ただ、カップからは湯気と香りが立ち上り、それは彼女の喉を渇かした。
パソコンの元へ向かい、彼女は自分のカップに口をつけた。こちらも砂糖はふたつだ。常より高い糖度に沿う味わい、上手く淹れられたと自賛する。それから、新着のメールを開いた。
その視界の端で、彼がカップを啜っている。一口をゆっくりと飲み干し、カップを置いた手で眼鏡を外した。
そして、彼は大きく伸びをする。
「んっ………はあああぁ」
ああ、ようやく今日が始まりそうだ。彼女は、そっと目を伏せた。
「おはよう、波江」
柔らかな声だった。耳に心地好い低音だった。
綺麗にカールさせた睫毛を震わせて、彼女は応えた。
「おはよう、臨也」
こっちにおいでよ、と手招きで誘う彼。そっちが来なさい、と言葉だけで返す彼女には、クスクスと笑い声が応じる。ひとしきり肩を揺らしてから、彼は自身を乗せたデスクチェアを引き摺って彼女の隣までやって来た。
ネイルや香水、ましてやランジェリーなど彼は確認しないだろうが、彼女には十分だった。
「今日は、仕事サボって、デートしよっか」
「だったら、池袋に連れて行きなさい」
「…じゃあ、シズちゃんに見つからないことを願ってて」
どこに行こうかなぁ、やっぱりサンシャインとかがデートっぽいかな、と彼は楽しそうに呟いた。
何でも良いわ、という台詞を、彼女は甘めの紅茶と一緒に飲み込んだ。『いつもの』今日が始まっただけで、彼女には満足だったからだ。
『侵食』
(わたしは ゆるやかに おか さ れ る )
作品名:侵食 作家名:璃琉@堕ちている途中