朝の光
その微笑みはまやかしなんだ。知ってるよ。
酷く薄暗い場所。
深く、遠く、光へ手を伸ばしたくてもその光すら見当たらない。
それでも、人はそこへ手を伸ばさずにはいられない。空を掴むとしっていて。
何故だ。何故手が届かないんだろう。罪も、後悔もなにもかも背負ってお前を手にしたい。
伸ばした手。
温かいものが触れた。
「・・・兄ちゃん?」
その声に、はっと目が覚めた。暗い闇が弾け、現実が戻ってくる。ここは、どこだろう。キングの屋敷?教会?ロンドンにある家だろうか。いいや違う、ここはロウランドの屋敷だ。
重苦しい頭痛とともに明滅する視界。両目を押さえる。吐き気がした。
「兄ちゃん、大丈夫かよ?」
声に無理やり顔を上げた。至近距離に見慣れた、弟の顔がある。
「ロウ・・・どうしてここに」
今はロンドンではなかったか。
「調度公演の切れ目で帰ってきたんだよ。知らせなくて悪かった。それより、倒れたって聞いたから、俺・・・」
「・・・あぁ」
数日前から身体の調子が悪かったのだが、様々な雑事を片づけるのに忙しくて無視していたのだ。
「今、何時だ?てゆーか、何日だ?」
「・・・24日。夜中だよ、兄ちゃん」
記憶にある日付は昨日のものだった。
フィオナや下の弟たちに、心配をさせてしまっただろうか。
「目が覚めたんなら、人を呼ぶよ。飲むもんと、薬と、医者もずっと屋敷にいてもらってんだ」
人を呼ぶために手を伸ばしかけた弟の手を取る。
「いい。人が動くとフィオナたちが心配するかもしれない」
言うと、ロレンスは言いようがないほど奇妙な形に顔を歪めた。
役者になるほどだから、兄弟という贔屓目をのぞいても顔立ちは整っている。さすがは母の子供だった。しかし、いつもこうやって自分の前では変な顔をするのだ。昔から変わらない。
「あのなぁ!倒れたのは兄ちゃんだろっ。こんな時ぐらい弟妹の心配なんかするんじゃねぇよ」
「うるさい。頭に響く。・・・それに」
人に会いたくなかった。
いつの頃からか被りだした仮面。自分で望んで付けたはずだったのに、時折引き剥がしたくて仕方がなくなる。
一過性の衝動だ。時間を置けば、自分はまた笑みを浮かべられる。
夢見が悪かった。何を見たのか、覚えてもいないのに。頭を振ると、ぐらりと視界が揺れた。
「兄ちゃん!」
枕に倒れ込む。伯爵家の枕は柔らかく、力の抜けた身体を優しく受け止めてくれる。
「・・・ロウ、俺吐きそうだ」
「えっ!」
ばっと、ロレンスは両手を口元に差し出した。吐瀉物を受け止めてくれるつもりなのか。可笑しかった。
「ふ、ふふっ。大丈夫だ、吐くもんなんかないよ。お前は変わらないな」
子供の頃からどんなにきつく当たってもそっけなくしても、必ず後ろを付いてきていた。あの頃の自分は、けして優しくはなかった。むしろ冷たく冷淡だった。それでも弟が一番慕ってくれたのは血の繋がりのある自分だった。
目を瞑った。
疲れたな、と思った。
「なあ、兄ちゃん。やっぱり辛そうだ。人を呼ぶよ」
弱弱しい声。
「大丈夫だよ、ロレンス」
大の男が一度倒れたぐらいでここまで心配されるものだろうか。
「・・・兄ちゃんになにかあったら、俺」
胸の上。掛け物の上に重みを感じた。手探りで頭を撫でる。触り心地のいい頭だった。
人を。
愛するということの難しさ。反転、こんなにも愛しいと思えることの不思議。
「大丈夫だ、ロレンス」
吐き気がした。頭痛も。
しかし静かだった。いつの間にか聞こえ始めた弟の寝息。
窓の外。母さんが飛び降りたという場所がいつも見える。幻だろうか、朝焼けに染まるその場所に、誰かが立ち、こちらを見て微笑んだような気がした。
「お兄ちゃん!」
足音、メイドが制止する言葉が聞こえているのかいないのか、幼く元気な音だった。
「フィオナ。おはよう」
「ライナスお兄ちゃん、目が覚めたんだね。よかった!みんな心配したんだよ。エリオットなんかね、あのね、」
「あ!こら!!余計なこと言うなよっ」
「エリオット、トーマスも。おはよう」
「あ、兄さんおはようございます。体の方は、もう大丈夫ですか?」
じゃれついているフィオナとエリオットから少しだけ距離を置き、トーマスが言う。
「えぇ。ちょっとだるいですがね。もうほとんど治りましたよ」
「よかった!もう、兄さんが倒れたときは大変だったんですよ。フィオナもエリオットも泣いちゃうし、アイザック兄さんが大丈夫だって言っても信じようとしないし」
「あ!トーマスお前っ何言ってるんだよ!」
「内緒って言ったのに!」
フィオナとエリオットがトーマスに詰め寄り、今度は三人でじゃれつき始めた。
「~~~~~っ!!お前ら!うるさいぞっ。兄ちゃんはまだ具合が悪いんだ静かにしろ!!」
ベッド横の椅子に腰かけていたロレンスが叫ぶ。
「・・・お前が一番うるさいよ、ロレンス」
事実だ。
「だって兄ちゃん!」
「ぶはっ」
ふくふくと太り、食べることと遊ぶことが何よりも大好きだった子供の頃のロレンスの言い方にそっくりで、思わず噴き出す。
「笑うなよ!」
顔を真っ赤にして怒る弟。仲良くじゃれつく弟妹たち。
「あぁ、今日もにぎやかですねぇ」
ベッドの中で笑った。きっと、ここに父がいれば一緒に笑ってくれたに違いない。
ここは明るい。朝の光の中だった。