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世界でたった二人の、

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シンゴは目を覚まさない。死んでいるわけではない。ただ深い眠りについている
だけだという。目覚める可能性は殆どないと聞いた時、トキオはその場で崩れ落
ちるように膝をつく。カタシロは病室の外、ドアの傍で医師の説明を受け、人形
のように横たわるシンゴを見つめては涙を流す彼の様子を伺っていた。一体何が
間違っていたのか。全てだとも言える。少しずつ歪みが生じた末の決壊。跡形も
なく綺麗に、塵になって消えてしまえれば良かった。四人で足を運んだ海に全て
還してしまいたい。けれど、トキオとカタシロは生きている。大切なものを失っ
た今も。瞼を開こうと思えば開ける。朝日も、澄み渡る空も、海も瞳に映る。目
の前に広がる景色は、輝きのない平淡なものだった。彼の絵に惹かれることがな
ければ、彼が絵を描く姿が好きだと思わなければ、こうはならなかったかもしれ
ないと、全ての偶然を呪いながらもカタシロは自分を強く責める。責めてもどう
にもならないとどこかで分かっていても、そうするのを止められない。自責して
いる間にも、ソラやシンゴが自分に見せた様々な表情を思い出しては、結局どち
らも選ばずに手放した事実を突きつけられて、動けなくなった。そうなってしま
うのはトキオも同じか。いや、彼はシンゴが目覚めたら今度こそ迷わずに手を握
って離さないつもりでいる気がした。中途半端なのは自分だ。誰かが囁く。お前
の望み通りだ、良かったじゃないか。最初惹かれたのは絵の主だった。絵の主だ
けだった。トキオがずっとお前の隣で笑っていたソラの手を引いた。彼女は行っ
てしまった。誰かが彼女を奪うことなど考えたこともなかったけれど、第三者が
介入してきても、彼女の手を迷わず握れる覚悟があるほど執着してなかっただろ
う?違う。カタシロは答える。じゃあ、トキオがそうしたように彼が大事にして
いたものに触れて、そのまま手を引ける覚悟があったか。カタシロは心臓を鷲掴
みされて、圧迫されているような感覚に襲われて自問自答さえできなくなった。
ドアの先で静かに横たわる、一年の殆どを太陽が燦々と照りつける島にいるのに
焼けることのない、精巧に出来た像のようなシンゴの手を思い浮かべては堪らな
くなって強く瞼を閉じた。カタシロとトキオの間にはシンゴが横たわる。残った
のは、世界にたった二人だけ。ただの友人以上の執着を持ってしまった果ての終着点。
ガラ、と静かにドアが開く。主治医もカタシロにも構わずにトキオは病院の入り
口までふらふらと歩いていく。カタシロは主治医に一礼すると、トキオに並ばな
いように間隔を少し置いて歩いた。病院に来た時の天気なんて覚えてなかったが、
ガラス戸越しに細い無数の糸のような雨が舗装された道に打ち付けられては水に
なっていた。絶え間なくざあざあと降り注ぐ雨の中を、先を歩くトキオは自身が
濡れるのもお構い無しに歩く。後ろから彼の背を見ていると、このまま雨の中に
彼がすうっと消えてしまいそうな気がした。そうなってしまえたら幸せかもしれ
ない。けれど、互いに大事なものを奪い合って破滅に追いやったというのに、互
いを憎むことはなく、少なくともカタシロはトキオが消えようとするものなら引
き止める気さえしていた。衣服が水分を含めるだけ含みきり、身体に張りつくよ
うになった頃、ふとトキオが立ち止まった。カタシロもその少し後ろで立ち止まる。
暫くは充満する土や埃の匂い混じりの雨の匂いの中じっとしていた。雨に身を浸
しすぎたのか、視界が滲んでくる。
「・・・・レイジ」
絶え間なく滴を落とす曇天を仰ぎ、トキオは聞き覚えのない名を溢した。
「・・・・え?」
「これから俺を呼ぶことがあったら、そう呼んで。・・・じゃあ」最後に遠回し
に別れを告げ、トキオ、いや、今はレイジと名乗る男は歩き出す。トキオの名は
棄てた。名前など替えは幾らでもある。他人にも、自分でもトキオとして過ごし
た時間に触れたり、触れられたりしたくなかった。名前を鍵にして、誰も見つけ
られないように沈めるのだ。記憶を呼び起こせるのはシンゴだけでいい。カタシ
ロは名を忘れることはないだろうが、自分で触れてきたりはしないだろう。して
欲しくもなかった。ただ、完全にカタシロという存在を記憶から消してしまいた
いわけではなかった。一度白紙にしてしまえばいいとだけ思った。絵筆を持たな
い人生だって、ないわけじゃない。心を殺した人生でも灰になりはしない。
再びふらふらと雨の中を歩き出したレイジの背をカタシロはただ見送っていた。
レイジは今トキオとしての記憶を封じる為に仮面を被った。雨は止まない。たっ
た二人取り残された世界を水で浸していく。溺れる前に何とか生きる術を立ち尽
くしている間に探しみるが、目の前が水で溢れていくだけで、答えは見つからな
かった。段々雨の音すら、遠くなった。
作品名:世界でたった二人の、 作家名:豚なすび