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路傍の石すら奇跡に変わる

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自分たちには幾つかの不文律がある。
その最たるものは、自分たちの領域に不用意に立ち入らないことだろう。
しかしお互いにとっての特別な場所。
アンナ・ロウランドの部屋の上。日当たりのいい屋上で、時折顔を合わせることがある。


 三つのカップ。
一つの影。
しまったな、と思った。ここへ来る時間が一緒になってしまった。
ウィリアムの所在を確認しなかった自分のミスだった。扉を開け、振り返ったウィリアムに挨拶だけをして踵を返す。
ウィリアムの妻子が死に、彼はここへと一人でやってくるようになった。それまでここは、自分一人の場所だった。
先に来ている方に場所を譲るというのは、どちらから作った決まりだろうか。
あぁ、そうだ。初めてここで彼の背中を見た時に、自分は声も掛けずに去ったのだった。あまりにも兄の背中が痛々しく、口を付けられることのないカップが白く眩しくて。
「・・・ライナス・キング」
何故人はこの男と父の声を間違うことがあるのだろう。
呼び止められ、不思議に思った。
「はい」
光の中、闇の住人がゆっくりと振り向く。珍しいことだった。呼び止められることも振り向くことも。ここでは彼はいつも、背中越しに挨拶を返す。
「少し話をしないか」
上を見上げた。
今のところ、空に異変は生じていない。


 「いつから?」
はっきりと耳に響く声。
「・・・私の中で確信に変わったのはスタンリーが亡くなってから。疑惑はそれこそ、ここへやってきたその時から」
「誰かに言ったか?」
「私がこの屋敷に来てしでかしたことは、ウィリアム貴方も知ってるでしょう」
蠢くものは確かにあった。しかし幼く、狭い視界ではそれを捉えることができなかった。
全てを疑っていた。当然だろう。
アーサーも、アンナも、アルバート、ウィリアム、女中頭に執事、使用人。そしてアーサーの姉モルゴース。
母を殺す手引きをした人間はいつもこの屋敷にいた。母を殺し、アンナを狂わせ、スタンリーの食事に毒を盛らせ、ウィリアムの妻子を撃ち屋敷に火をつけた『女』の妄執。
アーサーを撃ったあの一件以来、グレースを殺した人間のことを口にするのはやめた。いや、正直にいえば、最後の最期で彼女を突き落としたのは自分だという真実から逃げたい気持ちもあったろう。
「ウィリアム。貴方は」
黒瞳が射抜くように見つめてくる。
三つのカップ。時折奏でられるヴァイオリン。小さな子供を追う様な目線、丁度ミス・ブレナンの目の高さを捉える焦がれた目。
「死者が見えるんですね」
あの女中を見つけた時もそうだった。導かれるように森の中を進んだ。彼女はそこに沈んでいた。
死者は喋ることはできるのだろうか。
己を殺した人間を指差せるのだろうか。
知りたくはないかと言う目線。そこに、確信はなかったか。
「・・・責めないのか」
全てを知っていて、黙認していたことを。間引かれた子供、悲しみの中に死んだ女たち。
それを知っていて何も言わず、断罪せずにいた報いは、十分すぎるほど受けている。この男は。
「・・・私は全てを許しました。そう思うことにしています。無理矢理にでも」
「・・・・・・僕には無理だ、許すことなんてできない」
天を仰ぎ見るその瞳に、青い空は映っているだろうか。


 「・・・貴方がレイチェルとアリスに救われたように」
たとえ、後にその救い以上の絶望が待っていたのだとしても。
「私も救われたことがあります。ただ、景色の美しさに」
ただの虹でしかないと分かっていてなお、神に感謝をした。生きていることに、弟を生かしてくれたことに。
「許す必要なんてありません。ずっと、死ぬまで、後悔を抱えて生きていくんですよ」
それが自分たちの罰だった。
「罪はね、贖えませんよ。神に祈り、司祭様に許されたってね」
自分が本当に許しを請うべき人たちはもういない。神は、彼らの代理人でしかない。
「・・・お前は牧師なのに」
視線を下げたウィリアムが口を開いた。
「えぇ」
「言うことに希望がない」
希望!
「貴方の口からそんな言葉が出てくるとは思いもよりませんでした」
「僕もだ。僕自身が、そんなものは望んでいないというのにな。・・・今のは、アリスの言葉だ」
柔らかい声。
「レイチェルは・・・『先生』はなにか言っていますか?」
「言っている。だが、いや・・・彼女は牧師の娘だから」
綺麗ごとをあの優しい笑みで、こちらの目を覗きこんで言っているのかもしれない。
「叱られているのかな。そうそう、叱ると言うならロレンスにお説教をしてほしいですよ。私の手には負えなくなってきた。先生の言葉には、昔からあいつは頷くんだ」
まぁ、フィオナが狙われていたあの事件が終わって、正餐会の後片付けも終わった後、上はアルバート、下はディックまでの兄弟にこてんぱんにされたロレンスは、今は少し大人しい。
ふと、口を開きかけたウィリアムを手で制する。
何を言おうとしたのか、分かったからだ。
「もう行きますよ。弟妹たちと約束をしているんでした。ウィリアム、レイチェル、アリスもごゆっくり」
「あぁ」
目を伏せたウィリアムは、紅茶のカップに口を寄せた。
「また、ライナス・キング」
「えぇ、また」
三つのカップ。
三つの影。
見えたような気がしたが、ここでのことはお互いもう口にすることはないだろう。
「・・・また、グレース」
階段を下りる。
温室に行こう。その前に読んでやる本を見つくろうために図書室へ。
さぁ、今日はどんな物語を話してやろう。