浴槽
子ども達が寝付くのを待っていたら、すっかり風呂の時間を逃してしまっていた。
追い炊きするまででもないだろうと急いで服を脱いで浴室へ飛び込んで、身体を洗い終えた閃が湯船に浸かろうとした時、誰かが脱衣所に入ってくる気配がした。
誰だろうと思いはしたが、別に男風呂に複数で入るのは珍しいことでもないので閃はそのまま湯船につかっていたのだが。
「邪魔するぞ――と、閃」
「頭領!」
浴室の戸を開けて入ってきたのは正守だった。手ぬぐい一本の姿で洗い場に向かう。
「別に襲わないぞ」
「べっ、べつにっ、そんなこと考えてたわけじゃっ」
嘘だった。浴槽に鼻から下を沈めながら閃は自分の鼓動がおさまるのを待つが、一向に静まる気配がない。何故か今日は正守から目が離せない。二人きりだから、だろうか。
「そんなにじろじろ見るな。それともあれか、何か期待してる?」
「いえっ!滅相もないっ!」
叫んでからまた湯船に浸かる。静まれ、静まれと自分の身体に言い聞かせているうちに、正守は身体を洗い終えて浴槽へとやって来てしまった。
「邪魔するぞ」
「はいっ」
長らく湯船につかってゆだっていたせいだろうか、素っ頓狂な声になってしまった。普段こんなに長い時間湯につかることなどないので、余計に自分の身体のペースが掴めない。
ひとつわかっているのは、それを乱しているのは目の前に正守がいるからだということだけ。
――にしたって、おかしい。正守と風呂が一緒になるのなんて、今に始まったことじゃないのに。それとも、今となってしまったから、だからだろうか。風呂以外――閨でも正守の裸体を見るようになってしまったから。
考えがぐるぐると渦巻いてしかもいっこうに答えはでないので、閃は浴場に背を向けて一番壁際へと身をひそめるように移動する。正守がもう4人くらいは入れるスペースがあるのに、閃はごく狭いスペースを居場所として上を仰ぐ。窓からスリットごしに月が見えた。
と、湯船の反対側でくつろいでいたはずの正守が閃の手を掴んだ。驚いて正守の方を見ると正守はいたずらっぽく片目を瞑ってみせる。
「手、握るだけ。な?」
「は、はい……」
湯船が波打つのではないかと思うくらい心臓が脈打っている。これ以上近づけば聞こえるのではないかとびくびくしているというのに、正守はつないだ手を辿るようにして閃の隣に座り直した。
「あ……」
「どうしたんだ、今日はおかしいぞ」
「はあ……」
やっぱりわかられていた。恥ずかしいと同時にどこかで安心もする。そう、今日は少しおかしいのだ、いつもならこんなことはないのだ。次同じような機会がやってきたとしても、普通に元に戻るに違いない。でなければ困る。
「お、俺、あがります……」
「あれ、そうなんだ。じゃあ」
突然水音を立てて正守が覆い被さってくると、閃の唇に正守のそれが押し当てられる。湯気に当てられて濡れた唇の感触は背徳的で、舌が蠢くたびに腰が砕けていく。離れていく唇と唇の間に透明な橋がかかってそれが途切れる頃には、閃の身体はまた肩まで湯船につかってしまっていた。
「どうしたの?あがるんじゃないの?」
「あがります!」
そう言いながら閃は正守に握られたままの手をもう一度握り直した。
「……もう少しだけ、入ってますけど……」
「そう?」
正守は涼しい顔をしている。自分はきっと今にも湯当たりしそうな真っ赤な顔をしているに違いないが、それでもつながれた手をほどこうという気にはなれないのが今日最大の不思議だった。
<終>