HARUコミックシティ新刊サンプル
「こっち!」
手を引く指先が、汗ばんでじっとりと熱い。
力任せに握られた、その握力を痛いと言えるほどの余裕さえなかった。息ができないほど走って走って、また走って、足がもつれそうになるのを懸命にごまかす。
夜の闇にも溶け込むような二人の影が、微かな月の光にあたって伸びていた。
竜ヶ峰帝人は、決して運動のできるほうではない。むしろ苦手の部類で、春先に人助けをしたときなどは女の子に手を引かれる始末だった。あれは思い出すだけで苦い記憶だ。あの時、少しでもいいから日ごろの運動不足を悔いて、トレーニングを積んでいれば、今これほど苦しむことも無かったのかもしれない。
心臓と息の音が体内に響いて聴力を阻む。隙間を縫うように、足音が乾いた空気に響いて鼓膜を揺らした。それはまるで自分を取りかこむ空気が、一斉に合唱でもしているかのようだ。意識がどこか遠いところにあるように感じられて、思考回路が上手く働かない。ぐらぐらと揺れるその世界で、帝人は懸命に息をした。
息を吸う、そのことを意識しなければ、それさえ忘れてしまいそうで怖かった。
手のひらが、熱い。
引いているのは、折原臨也だ。
「ッチ、しつこいなあいつら……!」
忌々しげに呟いた口調は心底腹立たしげで、珍しく焦りを感じさせる。あの平和島静雄と対峙したって焦りなど微塵も出さない男なのに、今回の相手はよほどヤバイのか、それとも人数が多すぎるのか、もしくは帝人と言うお荷物がいるからなのか。
多分、最後のが一番の理由だろうなとぼんやり考えながら、帝人はただ、手を引かれるまま必死で臨也についていく。臨也はこの暗闇の中でも周囲の景色が見えているのか、単なる土地勘の差か、足取りに全く迷いが見えなかった。
さっきの、あの場に何人いたかなんて覚えていないが、片手では確実に足りないだろう。それらの目が一斉に自分と臨也に向けられたときの冷たさを思い出して、帝人は臨也と繋いだ手に力をこめた。
今の帝人に、味方は彼しかいないのだ。
狭いコンクリートの通路を突っ切って、外階段を駆け下り、路地を抜け、再び違う路地へ。きっと臨也一人だったなら、もっと簡単にひらりと逃げてしまえるのだろう。帝人は自分の運動神経の無さを申し訳なく思うけれど、こればかりは急によくなることはありえない。止まるわけにはいかないと理解してはいても、滅多にない運動量に、帝人の足はとっくに悲鳴をあげていた。
乾いた空気に響く足音。残響の、余韻。
「まだいける?」
帝人に尋ねる声が切羽詰っている。正直にもう無理だと言ってしまいたかったが、かといって万が一にでも見捨てられ、ここで取り残された場合、帝人には明日が無いかもしれない。そのくらい危険な相手だと分かっている。
今はこの、繋がっている手のひらだけが、帝人の命綱だ。
だから必死になって、帝人は首を縦に振った。答える気力は残っていなかったし、うっかり口を開いて臨也の名前を呼んだら、それはそれで追っ手に彼の存在を明らかにさせて、迷惑をかけてしまいそうだったから。
「……ああもう!」
けれども口にしなくても、様子を見ていればまだいけるか否かなんてのは明白だったらしい。舌打ちをした臨也が帝人の腕を強く引き、背中に手を回して体ごと押す。
「ちょっと、飛ぶから舌かまないようにね」
「は?」
「行くよ!」
路地の突き当たりは、壁沿いに折れて細い下降階段になっている。その手摺、宙に向けて一直線に突っ込んだ臨也が、帝人を抱えて地面を蹴った。
影になっていて良く見えないところだったので、帝人にとっては完全に不意打ちの跳躍だ。
「っわ!」
おまけに、まさか荷物のように抱えられるとは思わなかった。帝人は慌てて自分の手の甲に噛み付いて、それ以上叫ぶのを押さえると同時に舌を噛まない処置をとる。
池袋に出てきてから判明したことの一つに、自分は案外機転のきく方らしい、というのがある。とっさの行動力、判断力には臨也直々に合格点を言い渡されているのだが、そんなことは今現在、何の慰めにもなりそうに無かった。
風の唸る音。
吹き付ける冷風と、迫るコンクリート。
暗闇ばかりを映す視界。
一瞬だけ消えた足音の残響、そして、抱え込まれて密着した臨也の温度。
全てがスローモーションで通り過ぎたような気がして、次の瞬間、着地した音で我に返る。細かな砂塵が舞い上がって、帝人は思わず反射的に目を瞑った。
作品名:HARUコミックシティ新刊サンプル 作家名:夏野