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なにもかも

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早朝。


徹夜でなんとかまとめ上げた資料を
確実に彼に手渡す為に
電車に乗って北西部に移動した。
やはりこういう時、少しでも中心街に近いと便利だと思う。

緑の生い茂る自然の風景が清清しい。
そういえば、ここに来るのは随分と久しぶりだった。

電車を降りて朝露に濡れた大地を踏む。
空気は確かに清清しいのだが
目的地が近づくにつれて、どんどん足取りが重くなっていく気がする。

―――また、失った。
まるで、まだ胸に完治していない傷が在るみたいに疼く。
今度こそ、うまくやれると思ったのに。


新たに失ったものと、最初に失ったもの。
どちらが大きいのかと問われても比べ様がない。
今会いに行くのは、自分が最初に失った方だ。


深呼吸をして、厳つい門の前に立つ。
いくらあの人でもイキナリ噛み付いてきたりはしないだろう。

気持を落ち着かせてベルを鳴らす。

「・・・・・・?」

ベルを何度押しても返事が無い。
腐っても紳士だ。
いつもは返事くらいはするのだが。

「まさか留守って事はないよな」


早朝を狙って来たのは、彼の生活パターンを考慮した上での事だ。
朝には、滅多な事が無い限り出掛けないのが彼の主義だ。
新聞を読んだり紅茶を飲んだりして朝だけは穏やかにしている姿を
実際に何年も近くで見てきたのだから。

考えていても仕方が無いと、裏口から忍び込む事にした。

静まりかえった、生活感のない部屋。
整頓されているというよりは、モノ自体が少ないのかもしれない。

古いものがなかなか捨てられない性格の自分に比べて
スコットは思い切りがいいのかもしれない、なんて事を改めて思った。

彼の寝室は確か、奥にあった。


「あ・・・」

一目でわかった。

白いシーツでより際立つ、燃え立つ炎のような紅。
息を殺して彼の傍らに寄り、そっと覗き込む。

今は閉じられている瞳は透き通る碧。
しかしその瞳は、刺すような冷たさを常に帯びていて
その威圧感には畏れを通り越して一種の憧れすら感じる。


今思えば、昔からそうだった。
決して手に入らないものばかりを欲しがる癖があるんだ。
今ではもう、寂しさを紛らわせる事が出来る唯一の存在すらも
とうとう失ってしまった。

あの笑顔を思い出さないように。
喪失感と孤独に震える身体を抱きしめるようにして硬直させた。


チッ、と聞きなれた空気の振動が耳を掠めた。
兄が俺を視ている。

朝露に濡れた緑を連想させる色のその瞳を見て
ただ単純に、綺麗だと思った。

「不躾な奴だな手前は。用があるなら起こせばいいだろうが。
・・・それとも、男の寝顔に興味でもあるのか?」

皮肉たっぷりに言いながらベッドサイドの灰皿と煙草に無造作に手を伸ばす。
慣れた手つきで煙草に火を点け、眼光鋭く睨めつけられる。

「ああ・・・気をつけるよ。」

心の底まで見透かされそうな視線に堪えられず、意識的に目を逸らすと
スコットは咥え煙草のまま再びシーツに倒れ込んだ。

「それより、スコット。会議の資料を持ってきたんだ。
一通り目を通してくれれば内容は理解できると思う。
最後の頁にはサインを。それから、意見がある場合は・・・」


一切反応の無いスコットを盗み見ると、無表情に天井を仰いだままだ。
立ち昇る紫煙さえその目には映っていないように思えて、俺は一度小さく肩で息を吐いた。

「スコット」
「続けろ。」

微動だにせず言葉が紡がれる。
決して大きな声ではないのに、ピンと張り詰めて
広い部屋の隅々にまで響く。

自分を強く持っていないと、足が震えそうだった。

「・・・意見がある場合には直接俺に言ってくれればいいから。」
「ふん」

何が可笑しいのか、スコットが鼻で嗤って起き上がり、灰皿で煙草の火を消した。

「言いたい事はそれだけか?」
「あ、ああ。それを言いに来たんだ。」

「―――Liar」
「え?」

伸びて来た腕に咄嗟に資料を差し出すと、それはいともあっさりと宙を舞った。


「モノ欲しそうな顔しやがって。真面目な話が台無しだな。」

ああ、顔が熱い。
自分でも、気付かぬ振りをしていたのに。

「来いよ。暫らくこの世に戻って来れない所まで飛ばしてやる」
「はっ・・・何、言って―――」

「繕うなよ。なあ?上品ぶろうが堅物を装おうがお前の本質なんて
所詮、ただの欲しがりだ。なあ、そうだろう?」

ああ―――何も、考えられない。

グルグルと視界が回るような錯覚を覚える。
寝不足?―――否。
郵送やデータ転送も出来る時代だ。
重要な書類だからと理由をつけて
わざわざここまで足を運んだ、理由。


パラパラと床に散らばる紙切れを焦点の定まらない目が映す。


景色が一気に反転して、背中を強打した。
冷たい。
兄の後ろには天井が霞んで見える。

口の中一杯に苦味を感じて、目を閉じた。
これは、煙草の味だ。
喉に違和感を感じて咽るが、開放しては貰えない。
苦しくて、涙が出た。

「おい、目を開けろ」

首に手をかけられる。
このまま力を込められたら、いとも簡単に俺は絞め殺されてしまうだろう。

言われるままに、薄っすらと目を開けると
愉しそうなスコットの顔があった。


「俺と一つになりたいんだろう?」



耳元で囁かれる
甘い、声。
冷たい瞳。

妖艶で、美しい。まるで悪魔みたいだ。

「スコット・・・」

今、ここで
総て空け渡して仕舞えれば、どんなにか楽だろう。


―――俺は・・・そうしたいのか??


「離、せ。離してくれ」
「おいおい、素直になれよ。もういいんだろう?
大人しくしてりゃあ、すぐに終わる」
「いっ・・・や、だ・・・・・!」


体温に反して冷たい瞳。歪んだ口元。
目を合わせると、動けなくなる。

そこに在るのは、ただの恐怖ではない。


ああ見透かされているのだ、と解る。
本当は俺が求めているのだという事も

愛した事も、失ったことも
総て棄てて、今はもうただ満たされたいという欲望も。



―――楽に、なりに来たんじゃないのか?



いやだ。認めたくない。




―――世界が、暗転した。






作品名:なにもかも 作家名:甘党