うつくしいもの
伸びやかな長身がコートで跳梁する。逆光に照らされたその影が一瞬、空中でとまって見えた。跡部は思わず目を奪われて見惚れた。
何度見てもそのシルエットは、まるで初めて見たもののような鮮烈な印象を跡部に与える。一瞬どきりとして、それから息を詰めて、呼吸をするのを思い出すまで目が離せずに、惚けた顔で見つめてしまう。それは一言で表すならば美しいとしか言いようがなく、そんな言葉を思い浮かべてしまった跡部はいつも少し戸惑い、それから思わず舌打ちの一つでもしたくなるような少し腹立たしい気持ちになる。が、やはり美しいとしか跡部には言いようがないのだ。
神に愛された者がいるとするならば、それは樺地だろう、と。跡部はそう思っている。
見るもの全てを吸収し、それをすぐに消化してしまう柔軟さ。なんの気負いもてらいもなくまっすぐにボールを返す。どんな技も難無くやってのける身体。それらはもちろん全て神が与えたもうたものなどではなく、樺地が、樺地自身の努力で手に入れたのだと跡部はわかっているけれど、それでもきっと樺地は神に愛されている。でなければ、樺地が跳躍する度に神々しいなにかを見てしまったかのように目がすいつけられ離すことが出来なくなるその理由が、説明できない。
「おい、跡部」
対面コートから声をかけられて、跡部はむりやり視線をひっぺがしそちらに顔を向けた。
「なんだ」
「監督、来てるぞ」
宍戸が顎をしゃくるその先、コート脇に顧問の姿があった。ああ、と小さく呟いて、跡部はコート脇へ駆け寄った。
「全員集合!」
うつくしいもの。
力のあるうつくしいもの。
うつくしいものには力があると、跡部は信じていたし、また、そういう力のあるうつくしいものが好きだった。
87…88…89…90…91…92…、
頬杖をついて、跡部は自分の頸動脈の音を聞いていた。
目の前にはとっくに書き終えた日誌が置いてある。
西向きの窓の掏りガラスを通して夕暮れの光が長く伸びて、部室の床から壁に光の帯をつくっていた。
自分の指先が少しづつ冷えてきていることに跡部は気付いていた。書き終えた日誌の上にシャープペンシルを放り出してから、ずいぶんと時間がたった気がする。
冷たい指先に頬を強く押し付けた。
部室のドアの前では樺地が、跡部の出てくるのを待っている。跡部はそれを知っていて、さっきからこうしてぼんやりと自分の頸動脈の音を数えている。
125…126…127…128…129…130…131…132
ぐずぐずしていると、守衛の見回りの時間が来てしまう。使用時間を守れと聞き飽きた小言をもらうのはごめんだったが、それでも投げ出した足に力を入れる気が起こらない。
「樺地」
今、跡部が出ていったら、樺地は当たり前のように跡部の手からスポーツバッグを受けとって、そして部室の鍵をかけ終えて歩き出したら、何も言わずにその後からついてくるだろう。
樺地、と振り向きもせずに跡部が言ったなら、ウス、と後ろから返すだろう。
違うんだ。
樺地。
256…257…258…259…260…261……
違うんだ、なぁ、樺地。
そんなことをしなくても。
律儀に返事などしなくても。
そう思う一方で、じゃぁ自分はどうしたいのかといえば、それがわからない。
樺地、と呼び掛けて、ウス、と応えられて、時々うろたえている自分がわからない。
397…398…399…400…401…402
そこまで数えて跡部は、勢いよく椅子を鳴らして立ち上がった。
椅子の背にかけてあったブレザーに袖を通し、スポーツバックを引っ掴む。
わからないのではなく、きっと認めたくないだけなのだ。
それはきっと、とても簡単なことで、多分、自分はただ樺地を自慢したいだけなのだ。
逆光に照らされた長身がストップモーションするあの瞬間を、綺麗なものを見せびらかす子供のような単純さで、自慢したいだけなのだ。
テニスプレーヤーとしての自分が心の中でチリリと揺れる。かなわない、とは思いたくない。思いたくないけれど、それでもやっぱり、午後の陽光の中で跳梁する姿は跡部の目を捕らえて離さないのだ。
耳障りな音をたてて鉄のドアを開けると、樺地がゆっくりと振り向いた。
夕暮れの風が思ったよりも冷たく首筋を撫でた。
「……樺地」
「ウス」
自分が想像した通りのやり方でスポーツバッグを受けとる樺地を、跡部はぼんやり見つめた。そうして跡部は、どうやら自分が困っているらしいということに気付き始めていた。