夕焼けと黒狐
朝、目覚めて寝癖を直すよりも先に眼鏡に手をかける。
プラスチックのレンズ越しから見えた世界が少しだけ歪むと、妙に安心する。
この目に映る世界はおおよそ他人から理解されるものではなかった。
そうでなくても、僕を理解してくれる人間なんて居ないのだけれど。
登校中、黒い狼を見た。低い声で唸っていて、口から小さい火の玉を出していた。
授業中、廊下でぱたぱたと騒がしい足音を聞いた。小さい子どもの笑い声も。
昼休みには、銀色に輝く毛の長い猫を見た。何もない空中を闊歩していた。
下校する時間になれば、僕はすっかり疲れきっている。
こんなのは毎日の事で、視界の端にちらちらと横切るこれらを見ないようにするのが大変だった。
何も知らずに今日も楽しそうにしているクラスメイト達が憎らしいとさえ思った。
だから僕は彼らを理解できないし、彼らも僕を理解できないのだろう。
僕がこんなものを見えることを彼らは知らない。知ってほしくもないが。
僕はいつも、独りで居る事を望んだ。
帰り道。また妙なものを見つけてしまったことに辟易した。
黒い髪に黒い着流し、首に巻かれたマフラーの赤色。
瞳は見えない。なぜならば彼は面をかぶっているからだ。吊りあがった赤い眼の黒狐の面だ。
口元だけは開いているので、煙草は吸いやすそうだ。ふかりと煙が上がる。
この妙な男を見て僕はすぐにわかった。これは僕にしか見えない存在だ。
すぐに視線を逸らし、つかつかと過ぎ去る。なるべく自然に、気付いていないように。
そう心掛けたつもりだったのだが前を横切る間、男は僕をじいっと見ていた。(ような気がした)
背中に刺さるような視線を感じつつ、僕はさっさとその場を後にしようと思った。
「お前、俺のこと見えてるだろ?」
聞こえてきた声に僕は全力で無視をした。
これ以上この世のものとかけ離れている奴なんかと付き合いたくはない。
聞こえていないふりをして、僕はすたすたと歩調を速めた。
本当は走って逃げだしたかったのだが、それはあからさますぎる。
何も見えていない、何も聞こえていない。そうやって過ぎ去るのが一番なのだ。
いつもそうやってやり過ごしてきた。彼らは居ないもの、見えないもの。
彼らとの関わりなんてないほうがいいのだから。
それでも、からんからんと彼の下駄の音が後ろから迫ってくる。
どうしてほっといてくれないのか。どうして構ってくるのか。僕が何をしたというのか。
「オイコラ、待てよ、」
カッ、とひと際大きな足音が聞こえた。
煙の匂いが強くなったのを感じたそのすぐ後に、男が僕の目の前にふわりと降り立つ。
僕の後ろから飛び越えてきたのだと理解するのに少々時間を要した。
乱れた赤いマフラーを男が直す。煙草が咥えられた口元に綺麗に描かれている弧を見て。
僕は思わず足を止めてしまった。
正面から真っ直ぐに、妖怪を見たのは何時ぶりだろうか。
視界を隔てる眼鏡など全く意味がないほど、男の姿がはっきりと見える。
髪も着物も面も、ほとんどが黒で統一されている中、血の色のようなマフラーが妙に映える。
それがなぜか、とても綺麗なものに見えて、僕の目はあっさりと奪われた。
呆けている僕を見て、最初は楽しそうに笑っていた口元が、段々と歪んでいった。
「おまえ、伊東?」
その口から零れた言葉に、僕は我に返った。
数歩下がり、目の前の存在から遠ざかる。何を呆けているんだ、僕は。
これはこの世に存在を認められたモノじゃない。何をしでかすかわからないというのに。
警戒心をむき出しにして彼を睨んだ。これ以上見えないふりをしても無駄だ。
「なぜ、僕の名前を?」
思わず語尾が震えてしまった僕の声を聞いて、男はふっと笑った。
だけどそれは、先ほどとは違いどこか自嘲気味な、少し崩れた口元だった。
その微妙な違いに違和感を覚えたが、そんなことはどうでもいい。
次に彼が言ったことのほうが僕には重要だった。
「ここらで噂になってんぞ。俺たちが見える面白い人間が居るって」
目立つ行為などした覚えはないのに。どうやら僕の事はそっち側の存在には気付かれているらしい。
さぁと血の気が引くのがわかった。そんな噂が広まれば、この男みたいな輩が増えるというのか。
そんな面倒事は勘弁していただきたい。興味半分で絡まれるなんて迷惑極まりない!
と、思ったが。まずはここを切り抜けるのが先決だ。
背を向けて逃げようかとも思ったが、自宅へ帰るためにはどうやってもこの道を通らなければならない。
この場は逃げ切れても待ち伏せされたらそれこそやっかいだ。
時期に日も沈みきる。夜のほうが奴らは活発になる。夕方の内になんとか帰宅しなければ。
何とかしなければ。
「別に食っちまおうとか考えてねーよ」
僕の考えを読み取ったのか、くつくつと男が笑う。その笑い方が癪に障る。
男が咥え煙草を指に挟み直し、煙を吐く。そういえばあの煙草、ずっと長さが変わっていない。
普通のものとは違うのだろうか。そもそも僕たちが知っているような煙草と同じなのかすらよくわからない。
からん、と下駄の音がしたかと思うと男は道の端に寄った。大きく道が広がる。
僕はちらりと横目で見ると、男は顎で道の先を指していた。
先ほどどの言葉を信用したとして、この行動の意味を考えると、さっさと行け、ということになるのだが。
最初の一歩をすごく悩んだが、気まぐれな妖怪の考えが変わらない内に行ったほうがいいという結果になった。
僕はなるべく男を視界に入れないようにして走り出した。全速力で。
そして家に着くまでずっと地面を見ていた。他には何も見たくなかった。
久しぶりに妖怪と会話までしたことを思い返すと、背筋が凍る。
僕にとっては幼いころから、奴らは恐怖の対象でしかないのだから。
震えだした手をぐっと握り締めて、ただひたすらに走った。
背中から、下駄の音が聞こえることはなかった。
「・・・・まぁ、覚えている訳ないか」
道の上、一人残された男がぽつりと呟く。
黒狐の面の下から、漆黒の瞳が見つめていたのは、彼が走って行った方角だった。
あたりはすっかり闇に包まれ、街灯もない道に男の煙草の火だけが鈍く光っていた。
橙の夕日の中、これが二度目の出会いであったことを。
僕はまだ知らない。