終の栖
この喉が君の名前を呼ぶ為に震えればいいのに。
この手が力強く君を抱きしめられればいいのに。
「千歳…なんや、今日も居るんかお前。もの好きな奴やなぁ」
力無く差し伸べられた彼の白い手に擦り寄る。この手に少しでも自分の体温が移ればいいと想う。日に日に白く、細く、冷たくなる彼の手を少しでも温めたい。
強く、強く、そう思っているのに、自分はなんと無力なのだろう。
「チトセ」というのは彼が付けてくれた名前だ。いつでもふらふらと現れる自分に「お前はいっつも変わらんなぁ」と笑いながら付けてくれた名前。この名前にもきちんと意味があるのだそうだが、音としてしかそれを認識出来ない自分には、その意味はよく分からなかった。それでも彼の薄い唇から漏れる息が空気を揺らし、耳に届くその音が好きだった。
出会ったのはいつの頃だったろう。幾年か前の温かい日だったように思う。
いつものように気ままに散歩をしている時に、ふらりと迷い込んだ小さな庭。華やかさにはいくらか欠けるが、いくつかの草木が手入れされてる小奇麗な庭だった。
「何やお前。迷子か?」
声がして慌てて顔を上げる。そこには今まで見たことないような、綺麗な人が立っていた。
名前は白石蔵ノ介といった。日がな一日、あまり日当たりがよくない部屋で机に向かっているような、しがない物書きだという。
「俺もちょうど休憩しょうと思ってたんや。よかったらこっち寄っていき」
ちょいちょいと手招きをされたが、見知らぬ人の誘いに乗るなど容易に出来るものではない。俺は少し遠ざかり、訝しげに彼を眺めた。
「なんや、つれないな。悪いようにはせーへんよ」
縁側の暖かい場所に腰を下ろした彼は、苦く笑いながら尚をも自分を手招いた。
一体何がそうさせたのか、今となってはよくわからない。ただ悪い人には思えなかったのは確かだ。そうして招かれるまま、彼にそっと近付いた。
その日からその庭にはよく遊びに行くようになった。綺麗な庭も気に入っていたし、彼が用意してくれるご飯も美味しかった。だが何より、そこを訪れると迎えてくれる彼の笑顔と、優しい掌が好きだった。
いつまでもこうして側に居られたらいいのに。そう思いながら、彼の隣で月日を過ごした。幾度目かの冬を迎えた時、その日々に少しずつ歪みが生じていたことに気が付いた。
彼が俺を呼ぶ為に息を吸えば、ヒュッという不快な音がする。時折苦しそうに咳き込み、重い息を吐く。そういえば全体的に出会ったあの頃より、痩せたようにも見える。
そんな彼の様子を心配そうに見上げれば、「大丈夫」と力なく微笑み、少し骨張った白い手が頭を優しく撫でた。
「それじゃあ白石、俺また夕方には来るから、それまで暖かくして寝とるんやで」
「すまんな謙也。手間かけさせてしもて」
「俺とお前の仲で何言ってんねん」
それじゃあ!と笑って手を上げ、その人物は家の扉を閉めた。
彼は昔からこの家の近所に住んでいる人物で、白石とは昔馴染みらしい。職業は医者。毎日白石の診察をしに来る。この家には白石以外の人間は住んでいない。それもあって一日のうちにも頻繁に様子を見にやって来る。
扉が閉まる音を確認してから、縁側を上り白石の横たわる布団の側に近付いた。
「なんや、今日も居るんかお前。もの好きな奴やなぁ」
自分を撫でる白く細い手に、想いの全てを込めて身を寄せた。それからするりと布団の中に潜り込む。
「ふふ、千歳はふわふわで温いな。離せんくなるわ」
離してなどくれなくていい。この手に優しく撫でられながら、身を寄せて、ずっと君の側にいたい。
「でもそうも言ってられん。…もう、世話してやれそうにないねん」
彼の苦しそうな息がそんな言葉を紡ぐ。別にいいんだ、そんなもの。ただ、君と一緒に居られれば、それだけで自分は幸せなのだから。
「だから、家に来た時みたいに、ふらっと他のとこ行きや」
寄り添う体を引き剥がそうと、彼の手が俺の体を掴む。それに負けじと爪を立て、俺はそこから離れようとはしなかった。
「何やの、お前……もしかして、俺と一緒にいてくれるんか?」
どこか自嘲気味な笑いを含ませた声色でそう言った白石の胸に、再び擦り寄る。「そうだ、離れるつもりはない」と懸命に伝える為に。
すると、頭上から呆れたような息が漏れた。顔を上げて見詰めれば、そこにいる白石は嬉しそうに表情を緩ませていた。
「……そっか。おおきに、千歳。ほんなら、ちょっと一緒に眠ろうか」
そう言うが早いか、白石はすうっと瞼を下ろした。その様子を俺は静かに見詰めていた。
「にゃーお」
それから、小さくひとつ、鳴き声を上げる。
ああ、この喉がもっと違う作りをしていたら、こんな単純な音ではなくて、もっと意味のある音を紡げたのだろうか。
「蔵ノ介」
眠る君の名前を呼んで、その細い体をそっと包み込む。
それから俺も、両目を閉じた。
END