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若い男

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――――――私には、君のその若さが羨ましい。


その男はそう言ってひっそりと笑ってから、目を合わせて顔を顰めた。
南京の夜。龍が彫刻された提燈がこの地方の古典的様式の冷たい石造りの家々の軒下にぶら下り、あざとい程に赤い提燈がいくつもいくつもぶら下っている。闇の中にいくらかこうした赤が光を放ち、往来する日本人たちの頭上を赤く照らしている。梅津という初老の男は、そう漏らしてからくしゃりと顔を歪めるように、老人特有の自嘲するような笑みを取り繕うようにわざとらしく肩をすくめていた。



「あなたは自分で、自分がこの時代の人間でない、未来の人間だと言った筈です。ならば私の方があなたより随分年寄りですよ」
そう告げてやれば梅津さんは苦笑しようとしたのか、しかし表情は浮かない。
言うべきではない軽口だったな、とは思ったがそのまま黙っていれば梅津さんが苦笑することを諦めたように首を振った。

「時間の軸というのは私にはよくわからん。後世になって光だの軸だの難しいことが研究されているようだが、私はただの船乗りだ。光だの時間だの、そんな事は学者が考えれば良い事だと思っていたし、仕組みなど理解しておらずとも苦労する事なく今まで生きてきた。だが今は違う。よくわからんという事の渦に放り込まれ、乏しい知識を恨んでおるよ」

梅津さんはそれだけ吐き出してしまうと、石造りの家の壁にもたれて流れる汗をハンケチで拭った。
病み上がりの老人にこの任務は酷なことであった。あの角松ほどの体力と体格を持った男であるならば、標的を探して南京中を駆けずり回るように歩きまわったとしても苦ではない。だが老いというものは本人の意思とは関係なくその身に忍び寄り、梅津さんの体力を奪う。


「私はあなたやあの男が未来から来たという事はどうでも良いことです。依頼人の素性など私が知っても仕方のないことだ」


梅津さんは「だろうね。君はそういう男だ」とにやりと笑ったが、私は表情ひとつ変えなかった。
未来から来た人間。そんなものは子供が読む空想科学小説や、アプレーゲルな大衆娯楽雑誌に載ってさえいれば良いようなものであって、今までの自分の人生において必要なことではまるでなかった。そういった事を空想するという柔軟さすら持ち合わせてはいないし、興味だってない。目の前のこの初老の男が未来の人間であろうと、過去の人間であろうと、それはどうでも良いことだった。どこで生まれていようと、そんな事は生年月日ほど取るに足りないことであった。


「ただあなたは私の目から見ても確かに人間だ。そして自分の“史実”をぶち壊す覚悟をしている。それで十分です」


この老人の顔からは、人間を殺したことのない人間特有の健全さがあった。
人望も責任もあり、日の当たる場所をしっかりと足を踏みしめて歩いてきた人間特有の匂いがしていた。だがそんな男が、初老になってからこうも人生を掻き乱され、影へと突き落とされ、それを受け入れ、真っ向から向き直り、覚悟している。梅津さんが言う通り、未来から来た、という事であるのならば現在の時代など見ぬフリをすれば良いだけだというのに、わざわざ足を突込み、石原などという大物へ手を伸ばそうとしている。それだけで十分すぎる程だった。


「如月中尉、君でよかったよ」


梅津さんはそう言って先ほどまでの歪な苦笑から表情を穏やかな笑みに変えた。



南京の夜。
日本人相手に酒を出す店から李香蘭などが流れ出し、雑踏に音を奪われながら耳に届いた。冷えるような冷たい風の中に亜細亜特有の蒸した熱が首筋へと届き、支那服の襟元で汗を吸った。












思えば数奇な人生を歩んだものだった。

海軍とは名ばかりの諜報部員としてこの生涯を終えるものだと覚悟していた。不満などありはしなかった。諜報という仕事はきな臭いことに首を突っ込むことであった。あの男たちに出会う前もそういった事に首を突込み、誰よりも知りえていた。感情などという不便なものはそぎ落とし、ただ誰よりも冷静に把握する事さえしていればよかった。だがあの、「みらい」という船の乗組員達に出会ってから、そんな事もできなくなってしまった。表情に表れずとも、感情というものがまるで源泉のように静かに湧き出し始めたのだ。そしてそれを好ましいことなのかもしれない、と思い始めたのだから、もはやこれ以上、密偵の仕事などできる筈もなかった。戦後、上海時代の腕を変われていくつも政府や軍からの誘いがあった。だがそれを全て断り、民間の貿易商社に身を投じてみようなどとは、あの頃の自分ならば決して思わなかったことだろう。考え付くことすらなかったかもしれない。実際にやっている事はさして変わらんが、それでも自らの意思を持って、という事は大きな違いだった。

―――――目の前に色が現れた。
ただ観察の対象でしかなかった人間というものが、ひどく重く感じられた。それぞれ生きているのだ。ふいにそんな事すら考えるようになったのだ。もはや今の自分に人間を殺すことはできんかもしれない。だがそんな自分を、あの老人は好ましく思うかもしれない。


「如月中尉、君でよかったよ」


ふいに南京の夜の風が首筋を撫でたような気がした。
目の前の扉の向こうにはあの男がいる。――――――――角松洋介。
あの日々から何十年が過ぎたのか。自分という人間一人を変えてしまうにはあまりに熱い時代のうねりだった。そしてそのうねりを一人で背追い込み、いまだ抱え込んでいる男がいる。男は一人、生き残った。未来から過去へ、たった一人、あの激動の時代を生き残ったのだ。その男に話してやらなければならない。あの男の友人、仲間がどのような最後であったか。どのような生き様であったのか。我々はいまだ戦後などという時代を生きてはいない。いまだ、一人、あの激動の時代に足をとられているのだ。



そして私はドアノブに手を伸ばした。



作品名:若い男 作家名:山田