呼吸すらままならない
自分が巻き込んだ全ての非日常から、全てを―
―彼を、日常に戻すために。
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以前いた街から引っ越して、一年と少し。
部屋の片隅に置いたアクアリウムに、
窓から夕日が差し込む。
夕焼けがにじみだすこの時間、
水槽が赤く染まるのを見るのが好きだった。
うつろう季節はもう肌寒いほどだったけれど、
涼しげに泳ぐ魚を、包むようなやさしい「赤」に
泣きたくなるほどの懐かしさを覚えた。
ただ、そんなときは決まって、
息が止まりそうなほどの何か―を感じてもいたけれど。
体調はもう回復していてなんともないのに、
何か、息苦しいような気がしていた。
呼吸すらままならないように、あえぐように息を吐き出した。
この狭い箱庭のような水槽の中で、
夕日に照らされて泳ぐ魚たち。
そんな光景に、
自分の姿を投影でもしているのだろうか。
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そろそろ、進路を決めなければいけない時期にさしかかっていた。
姉は、大学進学を薦めてくれた。
子供も手がかからなくなってきたし、
学費は私たちが出すから、行っておいでーと言ってくれた。
ありがとう、と言ったあと、
でもやっぱり、就職することにしようと思う、と告げた。
姉にこれ以上負担をかけたくなかったし、
自分自身、自立して生活していきたいと思うところが強かった。
学費は、悠司に使ってあげてよ、と笑って告げて、
その日は電話を切った。
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「彼ら」を崇拝する「教団」が、
定期的に自分の様子を探っていることは知っていた。
先代の「純生」がもうろくに機能しなくなっているから
「純粋なメス」である自分は、喉から手が出るほど欲しい存在なんだと、
かつて自分の教師であった男に告げられていた。
そうなのだ。
あの非日常の全ては、「自分の存在」が引き起こしたものだったのだ。
「稀少なメス」である、自分が。
では、どうすればいい。
「教団」は、オスをあてがうことにやっきになってはいるが、
稀少なメスに手荒なマネはしない。
…では、どうすればいい?
自分が巻き込んだ全ての非日常から、
全てを― 日常に戻すためには。
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「稀少なメスを、失いたくはないだろう?」
儚げな印象しかなかった教え子が、
転校していく前に、最後に言った言葉。
目に、こちらが圧倒されるほどの力を込めて、
搾り出すような声音だった。
自分はどうなってもいい、
監視したければすればいい、
ただ今ここにある全てを、元の日常に戻して、
そっとしておいて欲しい―
そう、言ったのだ、彼は。
自分がここからいなくなることで、全てが調和されるのならば。
今後一切、彼らに手を出すなと。
それが守られなければ、自分はお前たちの前から、
―永遠に消えてやる、と。
揺ぎ無い覚悟を持って、彼はそう言った。
崎山蓉司。
「病弱な、大人しい生徒」。
今までの彼に関する認識が、覆るような瞬間だった。
たったひとりで、
その身ひとつを賭けて、全てを背負おうというのか―
―不覚にも、「おもしろい」、と思った。
「―そうだ、確かに我々は、
君に消えてもらっては困るからね…」
込みあげてくる笑いを隠そうともせず、そう答えた。
よく分かっているじゃないか。
―「稀少なメス」が、どういう存在であるかを。
まさかそれを逆手にとられるとは思ってもみなかったが。
分かったよ、崎山蓉司。
君の一世一代の賭けを、我々は甘んじて受け入れよう。
早く「純生」の誕生を、と叫ぶ輩がうるさいだろうが、
それは私が抑えてやることにしよう。
さてしばらくは、君の「覚悟」がどれだけのものかを、
見させてもらうとしようか。
この広くて狭い、箱庭のような世界の中で、
精一杯泳いで見せてくれるのを、
――楽しみに、しているよ。
作品名:呼吸すらままならない 作家名:NEVERMORE