雨宿り
「あれ?」
それは雨の日の思わぬ巡り会い。
突然降り出した大粒の雨に、僕は手近な屋根の下に駆け込んだ。
服に付いた水滴を掃いながら辺りを見渡すと僕の他にも同じような人がいて、お互い災難ですね、なんて心の中で慰めの言葉が浮かんだ。今日に限って天気予報に裏切られ、今日に限って折りたたみ傘を持っていない。雨を好機と店の軒先に売り物の傘が現れ出すが、僕はそれをただ見遣る。にわか雨だろうから、止むのを待つことにした。一人暮らしの学生にはビニール傘一本に遣うお金だって惜しいのだ。
「あれ? 帝人君?」
誰かに呼ばれた気がした。
紛いなりにも池袋の住人になった僕だが、大勢の人が偶然雨を凌ぐのに選んだ場所で知り合いに会う確率は相当低い。空耳じゃないだろうかと思って聞き流してから、その声がよく知る人物のものと似ていたようなと思い直す。首だけ振り返るのと、肩に手を置かれたのは同時だった。
「あ」
「やっぱり帝人君だ」
やあ、と男でも羨んでしまう造りの顔に笑みを浮かべた青年がそこにいた。見目の良さもあり、一見すると人の好いお兄さんといった風があるが、僕はこの人が『絶対に手を出してはいけない人間』ということを知っている。けれど、こんな状況であからさまに無視するわけにもいかない。それに忠告してくれた親友には申し訳ないけれど、言われるほど自分はこの人が警戒すべき人間だと思っていないのだ。
「珍しいですね。臨也さんが池袋にいるなんて」
「今日は用があってね」
新宿で情報屋という堅気ではない職業を趣味でしている彼は僕の隣に並ぶと、まだ雨を降らしている重い空を覗くようにして見上げた。
「天気予報は曇りだったのに。傘なんて持ってないよ」
思わぬ呟きに、くすりと声にして笑みが零れてしまった。彼が首を傾げながら僕の方を見る。
「いえ、僕もです。いつもは折りたたみ傘持ってるんですけど、忘れちゃって」
街の表も裏も知り尽くす彼でも天気予報なんて平凡なものを生活の術にしているんだと、それが何だか擽ったかった。
「ああ、それで雨宿りしてるのか」
「そうなんです」
間抜けですよね、と付け足して無意識に売れ行き好調の傘立てを見てしまう。
「買ってあげようか? 傘」
彼の長い指が僕の視線の先と同じものを指していた。
「いえ、大丈夫です! 直に止むだろうし、急ぎませんし」
物欲しそうに見えてしまったのかと、慌てて僕は首と手を振る。
「何もビニール傘一つでそんなに全力で遠慮しなくても。高級時計でもプレゼントされた日には君は卒倒しちゃうんじゃないのかい?」
くっくっと可笑しそうに整った顔を崩す彼に僕は頬が赤くなるのを感じて、視線を逸らした。
「ごめん、ごめん。揶揄ったわけじゃないよ。そういう謙虚さは君のいいところだ」
目の端に浮かんだ涙を拭いながらのフォローでは説得力はないが、それでも悪い気はしなかった。この人の言葉は不思議と僕に染み込み容易く納得させてしまう。それがこの人が持つ生来のものか、それとも僕が微かに抱く憧れに似た好意の所為なのかはわからない。
「臨也さんは何か用があるんじゃなかったんですか?」
一連の下りをなかったことにしたくて、話題を変えると、そうだった、と彼は大袈裟に思い出したフリをする。この人のことだから頭の中では全てが緻密に組み立てられているに違いない。僕の出した話に乗ってくれたのは、僕の心情を察してくれたのだと思いたい。
「実は俺も急ぎじゃないんだ。だから待つことにするよ」
「別に傘、買えばいいんじゃないですか?」
ちょっと卑屈っぽかっただろうか。しかし事実、僕と違って、彼には余るほどの財力がある。ビニール傘のひとつなど、それこそ見知らぬ他人に買って振る舞ったとしても何処も痛むところはないだろう。
「いいんだよ。だって帝人君とお話出来るし」
「はい?」
考えに至らない返事に僕は目を見開いた。彼は少しだけ顔を曇らせる。
「迷惑?」
「いえ、そんなことはないです…けど」
彼は僕と話して何か利益があるんだろうか。僕は年下で街のことにもまだまだ無知で、彼に売れるような情報もない。この人が唯一興味があるだろうダラーズの話もこんな人の群れの中では出来ないだろうし、メリットが全くと言っていいほど思い付かなかった。
「帝人君、俺はそんなに打算的な人間に見えるかな」
「え」
あまりに的を射ていて、心の中を読まれたんじゃないかと僕は言葉が返せなかった。その反応に、やっぱりそう見えるのかあ、と彼はちょっと拗ねたように唇を突き出した。
「俺はね、何気ないお喋りだって好きなんだよ」
「そうなんですか」
好き、という単語だけがやけに大きく聞こえた。
「うん。さりげなく見える人間性とか、ね。意外な一面も見えたりする」
短いやり取りの中で、僕は彼に何を知られてしまったのだろう。何故だか、出来ればそれが悪いものではないことを心の端に願ってしまった。
「今日みたいなアクシデントへの対処の仕方も人それぞれで見ていて面白いよ」
「面白い…ですか」
「ああ。ほら、早速傘を買っている人もいれば、濡れるのも構わず駆けていく人もいる。じっと雨が上がるのを待つ人もいる。今の帝人君みたいにね」
言われて周りを見れば、皆思い思いの行動をして雨をやり過ごしている。同じタイミングで駆け込んだはずの何人かはいつの間にかいなくなっていた。
「臨也さんは何と言うか…本当に人が好きなんですね」
「ああ、そうだね。博愛精神抜きで俺は語れないよ」
軽い口調だが、簡単に肯定してしまえるのはそれが板に付いている証拠だろう。一本筋とまでは言わないけれど、揺るぎないと言うか。漠然と非日常を求めるだけの僕と彼とは途轍もない距離があるように思えた。知らず知らず視界は濡れた足元を映している。
「帝人君? どうかした?」
気遣う彼の声に顔を上げると、僕の視線は紅い双眸とぶつかった。
「………僕もですか?」
口を突いて言葉が出ていた。
「あ、いや、僕も面白いですか、って意味です」
狼狽えながら言い直す僕は一体どんな返事が聞きたかったのだろう。
先刻のよりも、これこそなかったことにしたい。
それでも彼は聞き過ごしはしないで、少しばかり目を細めて口を開く。
「そうだなあ、」
そこで彼は言葉を止めた。
「残念」
一瞬僕のことかと肩が跳ねそうになったが、その視線は空に向けられている。
「止んだみたいだ」
彼の言葉通り、雨は止んでいた。僅かに名残の小雨が降っているが、もう傘なしで歩いても差し支えないだろう。
「じゃあね、帝人君」
ひらひらと手を振りながら一方的な別れの言葉を押し付けて、彼は颯爽と行ってしまった。
「臨也さん…狡いです」
突然やって来て、好きなだけ人の感情を引っ掻き回して、唐突にいなくなる。
まるでにわか雨だ。
結局答えもわからずじまい。
そもそも、どんな答えを求めて自分がそれを口にしたかもよくわかっていない。
周囲にいたはずの人達は止んだ雨と共に足早に去っていく。
それは雨の日の思わぬ巡り会い。
突然降り出した大粒の雨に、僕は手近な屋根の下に駆け込んだ。
服に付いた水滴を掃いながら辺りを見渡すと僕の他にも同じような人がいて、お互い災難ですね、なんて心の中で慰めの言葉が浮かんだ。今日に限って天気予報に裏切られ、今日に限って折りたたみ傘を持っていない。雨を好機と店の軒先に売り物の傘が現れ出すが、僕はそれをただ見遣る。にわか雨だろうから、止むのを待つことにした。一人暮らしの学生にはビニール傘一本に遣うお金だって惜しいのだ。
「あれ? 帝人君?」
誰かに呼ばれた気がした。
紛いなりにも池袋の住人になった僕だが、大勢の人が偶然雨を凌ぐのに選んだ場所で知り合いに会う確率は相当低い。空耳じゃないだろうかと思って聞き流してから、その声がよく知る人物のものと似ていたようなと思い直す。首だけ振り返るのと、肩に手を置かれたのは同時だった。
「あ」
「やっぱり帝人君だ」
やあ、と男でも羨んでしまう造りの顔に笑みを浮かべた青年がそこにいた。見目の良さもあり、一見すると人の好いお兄さんといった風があるが、僕はこの人が『絶対に手を出してはいけない人間』ということを知っている。けれど、こんな状況であからさまに無視するわけにもいかない。それに忠告してくれた親友には申し訳ないけれど、言われるほど自分はこの人が警戒すべき人間だと思っていないのだ。
「珍しいですね。臨也さんが池袋にいるなんて」
「今日は用があってね」
新宿で情報屋という堅気ではない職業を趣味でしている彼は僕の隣に並ぶと、まだ雨を降らしている重い空を覗くようにして見上げた。
「天気予報は曇りだったのに。傘なんて持ってないよ」
思わぬ呟きに、くすりと声にして笑みが零れてしまった。彼が首を傾げながら僕の方を見る。
「いえ、僕もです。いつもは折りたたみ傘持ってるんですけど、忘れちゃって」
街の表も裏も知り尽くす彼でも天気予報なんて平凡なものを生活の術にしているんだと、それが何だか擽ったかった。
「ああ、それで雨宿りしてるのか」
「そうなんです」
間抜けですよね、と付け足して無意識に売れ行き好調の傘立てを見てしまう。
「買ってあげようか? 傘」
彼の長い指が僕の視線の先と同じものを指していた。
「いえ、大丈夫です! 直に止むだろうし、急ぎませんし」
物欲しそうに見えてしまったのかと、慌てて僕は首と手を振る。
「何もビニール傘一つでそんなに全力で遠慮しなくても。高級時計でもプレゼントされた日には君は卒倒しちゃうんじゃないのかい?」
くっくっと可笑しそうに整った顔を崩す彼に僕は頬が赤くなるのを感じて、視線を逸らした。
「ごめん、ごめん。揶揄ったわけじゃないよ。そういう謙虚さは君のいいところだ」
目の端に浮かんだ涙を拭いながらのフォローでは説得力はないが、それでも悪い気はしなかった。この人の言葉は不思議と僕に染み込み容易く納得させてしまう。それがこの人が持つ生来のものか、それとも僕が微かに抱く憧れに似た好意の所為なのかはわからない。
「臨也さんは何か用があるんじゃなかったんですか?」
一連の下りをなかったことにしたくて、話題を変えると、そうだった、と彼は大袈裟に思い出したフリをする。この人のことだから頭の中では全てが緻密に組み立てられているに違いない。僕の出した話に乗ってくれたのは、僕の心情を察してくれたのだと思いたい。
「実は俺も急ぎじゃないんだ。だから待つことにするよ」
「別に傘、買えばいいんじゃないですか?」
ちょっと卑屈っぽかっただろうか。しかし事実、僕と違って、彼には余るほどの財力がある。ビニール傘のひとつなど、それこそ見知らぬ他人に買って振る舞ったとしても何処も痛むところはないだろう。
「いいんだよ。だって帝人君とお話出来るし」
「はい?」
考えに至らない返事に僕は目を見開いた。彼は少しだけ顔を曇らせる。
「迷惑?」
「いえ、そんなことはないです…けど」
彼は僕と話して何か利益があるんだろうか。僕は年下で街のことにもまだまだ無知で、彼に売れるような情報もない。この人が唯一興味があるだろうダラーズの話もこんな人の群れの中では出来ないだろうし、メリットが全くと言っていいほど思い付かなかった。
「帝人君、俺はそんなに打算的な人間に見えるかな」
「え」
あまりに的を射ていて、心の中を読まれたんじゃないかと僕は言葉が返せなかった。その反応に、やっぱりそう見えるのかあ、と彼はちょっと拗ねたように唇を突き出した。
「俺はね、何気ないお喋りだって好きなんだよ」
「そうなんですか」
好き、という単語だけがやけに大きく聞こえた。
「うん。さりげなく見える人間性とか、ね。意外な一面も見えたりする」
短いやり取りの中で、僕は彼に何を知られてしまったのだろう。何故だか、出来ればそれが悪いものではないことを心の端に願ってしまった。
「今日みたいなアクシデントへの対処の仕方も人それぞれで見ていて面白いよ」
「面白い…ですか」
「ああ。ほら、早速傘を買っている人もいれば、濡れるのも構わず駆けていく人もいる。じっと雨が上がるのを待つ人もいる。今の帝人君みたいにね」
言われて周りを見れば、皆思い思いの行動をして雨をやり過ごしている。同じタイミングで駆け込んだはずの何人かはいつの間にかいなくなっていた。
「臨也さんは何と言うか…本当に人が好きなんですね」
「ああ、そうだね。博愛精神抜きで俺は語れないよ」
軽い口調だが、簡単に肯定してしまえるのはそれが板に付いている証拠だろう。一本筋とまでは言わないけれど、揺るぎないと言うか。漠然と非日常を求めるだけの僕と彼とは途轍もない距離があるように思えた。知らず知らず視界は濡れた足元を映している。
「帝人君? どうかした?」
気遣う彼の声に顔を上げると、僕の視線は紅い双眸とぶつかった。
「………僕もですか?」
口を突いて言葉が出ていた。
「あ、いや、僕も面白いですか、って意味です」
狼狽えながら言い直す僕は一体どんな返事が聞きたかったのだろう。
先刻のよりも、これこそなかったことにしたい。
それでも彼は聞き過ごしはしないで、少しばかり目を細めて口を開く。
「そうだなあ、」
そこで彼は言葉を止めた。
「残念」
一瞬僕のことかと肩が跳ねそうになったが、その視線は空に向けられている。
「止んだみたいだ」
彼の言葉通り、雨は止んでいた。僅かに名残の小雨が降っているが、もう傘なしで歩いても差し支えないだろう。
「じゃあね、帝人君」
ひらひらと手を振りながら一方的な別れの言葉を押し付けて、彼は颯爽と行ってしまった。
「臨也さん…狡いです」
突然やって来て、好きなだけ人の感情を引っ掻き回して、唐突にいなくなる。
まるでにわか雨だ。
結局答えもわからずじまい。
そもそも、どんな答えを求めて自分がそれを口にしたかもよくわかっていない。
周囲にいたはずの人達は止んだ雨と共に足早に去っていく。