夢と現実と
言われて静雄は顔を上げる。
帝人がおたまを持って首を傾げていた。
不思議な光景だ。
同棲などをしているわけではない。
たまたま、夕方に会って一緒に買い物をして今はこうして帝人が静雄に夕飯を作ってくれている。
この家に調理器具などなかったはずだ。
半月前までは確実にそうだったと静雄は記憶している。
今はフライパンから泡立て器まで一通り揃っている。
他人事ではない。静雄自身が揃えたのだ。
百均や雑貨屋で一人であるいは帝人と二人で買っていった。
ほとんどなかった食器の類も今ではいくつかダメにしても大丈夫なほどに数がある。
どうしてこんな事になっているのだろう。
(・・・・・・どうしてもこうしてもねぇ)
二人は交際していた。ひどく曖昧な告白を経て。
(区切りってなかった・・・・・・ような)
いつの間にかゆっくりと染み渡るように『竜ヶ峰帝人』が静雄の生活に存在した。
いないことが考えられない。
それでも「好きだ、愛してる、付き合おう」こういった分かりやすい言葉を互いに交わしたわけではない。
そばにいることに理由が必要であるのなら『恋愛』というくくりにするのが早い。
提案したのは静雄からか帝人からか今では忘れてしまったほどの朧気なもの。
大切なことではないからだ。
今ここにある全てが必要であり、過去存在したなにがしか、過程など無意味。
「何か面白い記事でもありましたか?」
帝人に再度たずねられて弟が表紙だから手にした雑誌に目を向ける。
開いただけで読んではいない。
部屋の中のあたたまる空気、帝人がリズミカルとは言いがたく出す包丁の音を聞いていた。
何が出来上がるのか一緒に材料を買ったというのに静雄には想像できなかった。
帝人のレパートリーが広いわけではなく単純に静雄が買い物の内容を覚えていないのだ。
道中での会話もまた思い出すことが出来ない。
急に知能が下がったかのような錯覚に溜息を吐きたくなる。
「もう少しでご飯が炊けますので」
帝人が「カレーは出来たんですけど」と照れくさそうに笑う。
部屋を満たすスパイスの香りと帝人の持っているおたまでカレーライスが食べられるのだと気付けそうなものだがどうしてか、それができない。
(夢心地って奴か)
現実感がなかった。
ふわふわとやわらかなもので包まれているかのよう。
「あ、そういえば・・・・・・味見をお願いしてもいいですか」
「あぁ」
静雄がうなずくと帝人はすぐに台所に引っ込み、おたまではなく小さな皿を持ってきた。
カレーのルーがある。
味見用のこんなサイズの皿が自分の家に存在することに何度目かの驚きを覚えて静雄はカレーを口にする。
辛かった。
そのぐらいで皿を砕いたりはしない。
理性はもろかったが怒りはない。
(ガラス類は片づけが面倒だから買わないように・・・・・・してなかったか?)
手元の皿に不思議な気分が増す。
これら全てが夢で実際はいつも通りトムとあるいは一人でマックやロッテリアで適当に済ませて今は夢の中なのではないのか。
「美味しくないですか?? 変なもの入れてないんですけど」
「・・・・・・いや」
この心配そうな顔をしている帝人も自分が夢の中で都合よく構築した存在なのではないのか。
そんなことを思いながら静雄は手を伸ばす。
帝人が身を引くことはない。
静雄に引き寄せられるままに身を屈める。
触れ合った舌先に帝人が驚いたようだが拒絶はない。静雄は満足を覚えて口の中の辛みがなくなるまで甘い唇を味わった。
(甘さが勝るな)
鼻から抜けるような吐息、肩に掛かる重さ。
これが夢だというのならなんとも現実感がある。
(現実みたいな夢なら、これは現実でいいだろ)
そもそも誰もこれを夢だなどと言っていない。
静雄が一人で疑い納得しているだけだ。
夢にしたいのは起きてしまったときのことを考えて虚しくなるからだろうか。
あるはずのない現実。
手にはいるはずがないもの。
傍にいられるはずがないと零距離を味わってすらまだ思っている。
怯えはない。
だが、信じ切れてもいない。
どこかに綻びがあるのではないのかと探している。
同時に何も見えてはいない。
この夢こそが現実であり真実だ。
他のものは必要としない。
「・・・・・・ん、ぅ・・・・・・し、ずぉさ」
潤んだ瞳の中に自分の姿を見て夢が都合がいいものだとしたら、これは現実だろうと静雄は思う。
(だってな)
赤く色づいた頬に手を添えて静雄は伝える。
「もう少し甘い方がいい・・・・・・お前ぐらいに」
目を見開かれて固まられた。
辛くなったものを甘くする手段がないのだろうか。
単純に砂糖を入れるのは少し違う気がする。
「アレか、林檎と蜂蜜」
「あ、えっと・・・・・・牛乳とかヨーグルトでもマイルドに出来ますから。買いに行かないでも大丈夫です」
立ち上がる静雄に帝人が笑いかける。
「静雄さんは座ってて、もう少し待ってて下さい」
かわいらしい足音を立てて台所へと帝人が消える。
また、ぼんやりと雑誌を開いたまま見ることもない緩やかな時間に戻る。
「結局、都合よく甘くなるなら夢か?」
口に出して見てからそれを否定する。
「甘い奴が作れば甘いものが出来るよな」
当然だと静雄は幸福を噛みしめることにした。
覚めない夢なら現実だ。
起きてしまえば眠ればいい。
単純な事実。