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【サンプル】船に乗る

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本文より抜粋

 とりたてて特別なところはない、築七年の小さなマンションの一室だ。1Kのその部屋で、逸人は一九歳からの一年間を石のように押し黙ったまま過ごした。じっと眠って、ときおり目だけ開いて、けれど誰とも言葉をかわさないまま、一年。一八から一年飛ばして二十歳になった。一九歳の彼自身を彼は知らない。二十歳だった彼を、わたしはほとんど知らない。


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 おずおずと毛布から出た顔は、あちこちひびわれて、ひどく白くて、頬がこけてうつろな目をしている。匙を寄せてやった口元がかすかに震える。ほとんど咀嚼する必要のないものを、時間をかけて苦しそうに飲み込む。ひと匙ひと匙を与える、この気の長い作業にも随分慣れた。
 カーテンを全開にしても奥までは光の射さない部屋だった。逸人が寝ているのはちょうど影になる部分だった。だからわたしも影の中に入ったまま匙を差し出し続けた。陽の光を浴びたらこいつは灰になってしまうのかもしれない、と奇妙なことを夢想した。
 「逸人」
 呼びかけてみると目だけが動いた。濁った瞳が瞬きもせずこちらを見つめている。腹の中のもののせいか、それとも眉をなくしたせいか、こいつの表情がほんとうに読めなくなった。この目にはほんとうにわたしが見えているのだろうか。
 「あのね」
 薄い黄色の目が見上げる。犬や猫よりずっと原始的な生きもののように見える。

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 それからどうしたかって?
 言ったんだよ。好きだって。俺お前が好きだから、もうそういうの見てらんない、やめてほしいって。お前が死ぬような目にあったら、俺も死ぬかもしんないって。
嘘だと思うか。正直俺もよくわかんなかった。本当でもいいような気がしてたんだ。どっちにしろ、俺が本気でそういうこと言ってるんだとしたら、あいつ放っとかねえだろ。そういう奴だろう。だから、いいと思ったんだよ。
 あいつ、ずっと黙って遠くの方見てた。ずっと黙ったままで、それから、言ったんだ。
 お前そういうこと言うんだ。そういう奴だと思わなかった。
 もう、お前の顔なんか二度と見たくないよ、って。

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 秋になると虫が鳴くでしょう。なんていう虫ですか、あれ、りいりい、と、澄んだ音を出す虫です。僕はあまりそういうこと詳しくないので、わからないんです。僕の部屋の窓の外、道路挟んでちょうど向かいに公園があるんです。それでいろいろな虫の声が、毎晩よく聴こえます。
 虫の声、あれが、ひどく身体に障るようになりました。背筋がぞくぞくして、寒くなって、立っていられなくなるんです。磨りガラスを掻くような感じですか、あれに似ています。胸の中に磨りガラスでできた筒のようなものがあって、その中にあの冷たい声が反響してひりひりするのです。そんな感じです。

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 「どこの不良娘かと思った」
 目を覚ましてわたしの顔を見るなり逸人は言った。
 「もう二十歳よ」
 「美容師の学校って、髪染めなきゃいけないとか、そういうのあるの?」
 「あるわけないでしょう、好きで染めちゃいけない?」
 「いけなくはないけどさ」

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 「あんたたちは」
 鈍は俺の顔を見て言葉を止め、しばらく考えた。
 「なんなのかしらね。わたしの」
 「ラブ?」
 「それはない」
作品名:【サンプル】船に乗る 作家名:中町