俺の世界は午前二時に終焉を迎えた
(ニーナって、)(とっても猫さんみたいだね!)
もう暗くなってから随分経つというのに、彼女の笑顔を思い出すだけで、まるでそこが昼間のような明るさを取り戻す。彼女は新名にとっての太陽そのものだった。ほがらかで、温かく、いい匂いがする。そんなきっと世の男が一度は夢想する女の子そのもので。あー、ちょっと大袈裟に言いすぎた。大概にしろ、と言う己への叱責を込めて吐いた息は、白くてゆるゆると闇に溶け込んだ。もうこんなに寒い季節になってしまったなんて。新名は両の手をこすり合わせるとそれをポケットに突っ込んだ。
今なにしてんの、とかそういう事は聞かない約束だった。別にそれは彼女と約束したことではなくて、単に新名の中のポリシーみたいなものだ。
コテコテにシールでデコレーションされている携帯電話の表面をポケットの中で撫ぜる。そうしていると彼女から連絡が入るような気がする。気がするだけなのでこんなのは偶然の積み重ね、おまじないみたいなものだった。連絡してくれるかな、そんなことないのかな。うじうじしている時間ももったいなくてポケットから携帯電話を出した。彼女が貼ってくれたクローバーのシールがお出迎えしてくれる。ポケットから出たばかりの携帯は生温い。慣れた手つきで開くと、着信も新着メールもなかった。あからさまに落胆すると、また彼女が似ていると言った猫さん歩きで歩き出す。
(俺ばっかりが期待している、)(そう考える俺ってなんかかっこ悪い、)
角を右に曲がって、少しだけ遠回りした。
この時間ならもう彼女も寝ていることだろう。ただ家の前を通り過ぎて、今日も彼女がこの町で生活していることを実感したかった。それだけだったのに。(神様は。)
「ニーナ……、」
先に口を開いたのは嵐さんだった。
「こんな遅い時間に珍しいな、」
嵐さんにしては的外れな、ちょっとずれた言葉だった。あからさまに何かを隠したがっているような、そんな。別に俺だって子供じゃないですから、大丈夫ですよ。言いかけて、やめた。彼女の、怯えたような瞳を前にしたら。(悪者は、俺だ)
「ちょりーっす。バイト帰りなんです。お二人さんも、デート帰り? こんな遅い時間まで駄目じゃないっすか。女の子の門限は早いんですよ?」
「……気をつける」
嵐さんの下手糞な笑顔に、新名のちっぽけな自尊心など粉々になった。
「じゃあ、おやすみなさ!」
走り出した新名の背中で、「あ、」という彼女のよくわからない声だけが聞こえた。
(デートとか、)(少しは否定しろよ!)
というのは勝手なエゴだと気が付いているけれども。走ったらあっという間に家の前だった。体力だけは無駄についたな、と思う今日この頃である。握りしめた携帯電話が振動し、着信を知らせている。嵐さんなわけがないので、見なくてもわかる、この着信は。(美奈子先輩……)新名は静かに呼吸を整えると、携帯を開いてプッシュボタンを押した。程なくして応答中になった電話は、切れた。また掛けてこないところが彼女らしくて、ちょっとだけ笑った。パタンと携帯を閉じると、目に飛び込むのはクローバーのシールで。ちょっと伸び気味の爪でそれを引っかけると、案外するするはがせた。半分ほど行くと引っ掛かって、あとは擦れるようにしてはがれ、なんとも中途半端に双葉が残る。あーあ。なんだかずたずたで、これ俺みたいじゃん。そっくり。
「ははっ……」
うずくまると、コンクリートに染みがいくつも出来た。それが涙だと認めたくなくて、ここだけ局地的、雨、とか考えたりして。携帯に表示された時刻は午前2時を回っていた。
終わった。終わったのだと。立ち上がると、ふらふらしながら玄関を開けた。家族はとうに寝静まっている。その間を静かに歩く。ああ、こういうところは猫かもしれない。新名はこんなときでも彼女を思い出す己を愛おしくすら感じた。
(ごめん、ごめん)
(俺、やっぱり、あんたが、)
(好きなんだよ)
本当は、もっと大人になりたかった。男の子じゃなくて、ただのひとりの男になりたかった。彼女に必要とされるような、どきっとするような、彼氏に、なりたかった。
(嵐さんより俺を選んでくれるような、そんな男に)
なれるはずはなかった。彼女が選んだのは、嵐さんだったのだから。
今はもう、ただ、胸が苦しかった。
ベッドに倒れ込んで、新名はやっぱり、泣いた。
作品名:俺の世界は午前二時に終焉を迎えた 作家名:しょうこ