モラトリアムに傷心
どこかぼんやりとした声音で臨也は窓の外、階下を暴れ回る背中に呟いた。机上の組んだ腕に、黒く小振りな頭を乗せて、半ば突っ伏すような姿勢でただ眺めている。その背中を、新羅は斜め後ろから机に腰掛けて眺めていたので、怠惰な姿勢で見ていたものが果して件の彼であるのか、はたまた本当に目を開けているのかすら判らなかった。
「あれって?」
「わかってるくせに。あれはあれさ。」
心底どうでも良いのだろうとも、見え透いた虚勢にも感ぜられたから、ああ彼の話なのだろうと当たりをつけて、苦笑する。臨也が何かに拘るさまは、なかなか良い見物だったが、友人として不誠実な自覚はあったので、雑談に脳の片隅を貸してやることは厭わない。無論、それ以外の大半の容積を想い人に使っている新羅にとって、臨也の思考などどう転ぼうが大したことではないのだが、それはそれとして。
「あれのせいで、全然たのしくない。」
「ふぅん。それは残念だね。」
臨也が、あれと呼ぶ彼のこと、新羅の友人でもある平和島静雄について、思考を停滞させるのは稀にあることだった。口から先に生まれてきたような男が、考えあぐねている。持て余している。人を操ることばかり得意な、この男が。(曰く、あれは人では無いらしいが)胸がすくような気もするけれど、ただただ不気味とも思える。次に、どんな突拍子もないことを始めるのだろうか。起こり始めてしまえば、抵抗なく踊ってやっても構わないが、これぽっちも楽しみではない。きっと私にとって良いことなど一つも起きないのだから。
「だから先ず、排除しないといけないんだ。きっと。」
「ああ、それでこの騒ぎなわけか。」
なるほどね。殊更興味がないという体で相槌をうつ。決して、先を促さぬように。臨也の思考が薄靄を晴らさぬように。血の巡らせ方を思い出す、きっかけを作らぬように。嵐の前の静けさでも平和には違いないのだ。もう一人の友人に心中謝罪しながら、それでも、この乱闘が終わらなければ良いと薄情に願う。
「退屈は人を殺すよ新羅。」
「何が言いたいのか、わからないな。」
「可哀相だね。察しが良くて。」
何だ、もう戻ってきたのか。新羅はとても残念に思った。ほんの少し安堵した。
身を起こした臨也が明らかな意志を目に滾らせて、新羅を見据える。いつもの臨也だ。彼は自分の心、欲望というものに対し簡潔だった。好んでめぐらす権謀術数の回りくどさと似ても似つかない潔さを持っていた。好ましくも疎ましくも思っていたが、その頃は先ず、友人を案じていた。大事にしなければいけない。新羅にとって、凡そ全てである彼女が言ったのだから絶対だ。
「買い被らないで。君の考えていることなんか、少しも解らないよ。」
五里霧中ってとこかな。新羅が肩を竦めて見せると、何が愉しいのか臨也はけらけら笑い出した。
「解りたくもないって顔してる。」
「臨也は賢いなぁ。何でもお見通しだ。」
「隠しもしないのはどうかと思うよ。」
「心配しているんだよ。君は頓着がないからね。」
一頻り腹を抱えて笑い、大きく息を吐き出して視線を窓の外へ逃がした。今度は彼が何を観ているのか、新羅にもわかった。
欲に従って生きる為に必要な能力を、生まれながらに有している、哀れな子供。今はまだその時でないことも知っていて、学校という名の箱庭に護ってもらうつもりなのだ。出来ればまともな世界で生きて欲しいと願う程度の友情はある。徒労に終わるだろうから、はじめから諭すことを諦めているだけで。ああ、いやだ。
「新羅はさ。いつも通り見物してれば良いよ。」
「勿論そのつもりだけどさ。巻き込まないでくれたら、君がどうしようと構わないけどね。」
「考えとく。」
「やめて。考えないで。」
臨也はこちら側に来るつもりだ。恐らく猶予はあまり無い。元から日常との結びつきは希薄な彼はよく心得ていた。自分の嗜好や趣味を追及するということが、どういうことか。如何に彼自身を明るい世界から遠ざける行為かということを。いざその時となっても躊躇わず境界を跨ぐのだろう。一寸先の闇へと、後戻り出来ないと知りながら。
酷く捩れた心に似合いの綺麗な造りをした面が、荒ぶる豪腕をみとめて、ゆがむ。
「お察しの通り。俺は今、最高にろくでもないことを思い付いたよ。」
「……ほどほどにね。」
止めても然したる意味はない。これまでと打ち切って、新羅は話を放り出した。投げ遣りな態度に抗議することなく、臨也は階下の騒音を追いかけている。
ガラスが割れる音と、誰かが叫ぶ声がする。少し不思議な音がしたので新羅も窓に近寄った。クラスメイト達に習って下を覗きくと、外は春の日差しに包まれて眩しい。金髪が日に照らされてきらきら揺れる。備え付けの鉄棒がひしゃげて宙を舞っている最中だった。乱闘が始まってしばらく経つ。もうそろそろ投げるものが無くなるだろう。学校もいい加減、校庭に何か置くことは控えるに違いない。
「ほんと、馬鹿力。早く死んじゃえば良いのに。」
化け物。悪態を吐く臨也は、言葉に感化されるように纏う空気を変質させた。全身から悪意が噴出すようなのに、双眸は冷めている。嫌いならば関わらなければ良いのにと思うが、それだけでは済ましてやるものかと赤い瞳が雄弁に語る。
静雄はまもなく此処へやってくるだろう。全ての元凶を確信して、荒れ狂う感情の発露を求め獣が咆哮するみたいに。圧倒的な暴力でもって、新羅の数少ない友人を破壊する為に。
お題配布元:ttp://syuro.sakura.ne.jp(シュロ)