独りぼっちのカノン
「……カノン、」
ヘレナ王女の呼びかけを無視するわけにはいかず、ようやく加納は顔を上げた。
「ヘレナ王女」
「貴方ももっと晴れやかな顔をするべきよ、今日はおめでたい日なのですから」
「しかし」
「カノン、」
いつも風のように穏やかなヘレナ王女の語尾が強くなる。
「貴方がしたことは、悪いことじゃないわ。でもそれがりりかを祝ってあげられない理由にはならないのよ」
加納は何も言わなかった。言えなかった。ただ明るく朗らかに浮かぶ「地球」を眺めて、美しい女性に成長したであろうりりかに思いを馳せる。
「りりか、くん」
名前を呼ぶことはできても、己に到底言える言葉ではなかった。「おめでとう、」などと。
地球を離れると同時に、加納はりりかの記憶から「加納望」及び「カノン」の記憶をすべて消した。それが優しさであると同時に贖罪であると思えたからだ。
彼女の23回目の誕生日の今日、地球はとても澄んだ青空で覆われている。カノンは久々に地球に舞い降りた。相変わらず地球の人たちは加納を見て、ひそひそと話をし、通り過ぎる人が振り返る。しかしそんなこと加納にとってはどうでもいい事だった。
星夜から送られてきた真っ白な封筒には(よく届いたな、と思う)星夜の角の揃った字で、「待っている」と書き添えられていた。同封されていた地図を頼りに加納は会場を目指す。夏もいよいよ伸び掛け、日差しは日ごとに増す。地球人習って赤茶色のスーツを身にまとった加納はふう、と額から流れ出る汗を拭った。
「あら、」
聞きなれた少女の声がしたので、思わず顔を上げると、そこには一人の気品溢れる女性が立っていた。
「加納望、先輩……?」
「君は、確か……」
「桑野みゆきでございます。お久しゅうございます、加納先輩」
黄色いワンピースのスカートをふわりとさせてみゆきは軽くお辞儀をした。
「加納先輩も、野蛮人の式に?」
「あ、ああ……しかし随分地球に来ていないものだから道に迷って」
「それでしたら是非私が」
彼女の日傘に加納が収まると、そこだけが絵画のような優雅さを漂わせていた。流石大病院の息女である。
「加納先輩がいらっしゃるなんて私知りませんでした」
みゆきのうなじがこの位置からだととてもきれいに見える。歩くたびにふわりふらりと揺れる髪を加納はじっと見つめた。
「きっと、森谷りりかも喜びますわ」
一瞬、周りの暑さに負けて、飲み込まれそうな感覚に襲われる。
みゆきの何気ない一言が、こんなにも加納に重く圧し掛かる。
「……そうかな、」
りりかが加納の来訪を喜ぶはずがないことを、何より加納自身がよく知っていた。
地球はとにかく暑い。もうこのまま倒れてしまえればどんなに楽か。
曖昧に微笑むとあとはみゆきの一歩後ろをただひたすら黙って進んだ。
小さな丘の上にその教会は、まるで絵に描いたように立っていた。
知っている顔も、知らない顔も、そこにはたくさんの人がいて、ただどの人もたった二人。森谷りりかと宇崎星夜の幸せを願っている、そんな顔をしていた。
カランカラン、と明るく澄んだ音色が、丘の辺り一帯を包んだ。それまでざわざわとおしゃべりに熱中していた人々がしんと静まり返る。重い扉がず、ず、と何かを引きずるような音を立てて開き、そこに、二人が現れた。
「きゃありりか、おめでとー!」
「素敵ですわ、りりかさん!」
友人たちの声につられたように、周りの大人も口々に声を掛ける。
「星夜、りりかを幸せにしなかったら蹴っ飛ばすからな!」
「よかったな兄ちゃん、姉ちゃん取られなくて!」
なんて、なんて幸せそうなんだろう。加納は喉から洩れそうになる嗚咽を必死で抑えた。潤んで見えなくなる視界に、とうとう加納は彼女を捉える。
「りりかくん……!」
数年ぶりの彼女はまるで見違えるような、素敵な女性だった。
いろいろな人に手を振り、笑顔を振りまく彼女はあの頃変身しなければ会う事の出来なかったナースエンジェルそのもので。
純白のウエディングドレスに身を包んだりりかが、ひとりひとりに挨拶をし、回ってくる。隣の星夜も随分背が伸び、男らしくなったものだ。先に加納に気がついたのは星夜だった。嬉しそうな笑顔が瞬間硬くなる。白いタキシードが汚れるのも構わず、走り寄ってくる。その姿は幼いころを彷彿とさせた。
「加納!」
「星夜っ!?」
急に姿が見えなくなった星夜を追いかけて、りりかも加納の目の前に現れた。
「もう、どうして勝手に行っちゃうのよ星夜ったら!」
ざあ、とこのまとわりつくような暑さを和らげげる、風が吹いた。たぶん、ヘレナ王女からのささやかなプレゼントだろう。加納はゆっくり、ゆっくりとりりかの顔を見た。りりかもゆっくりゆっくりと加納に視線を合わせる。
「来てくれたんですね、」
りりかの瞳から、静かに一筋、涙が零れ落ちた。
「加納先輩」
堪え切れずにとうとう加納も涙を落とす。
「りりかくん、覚えて……!」
星夜がそっとりりかの肩を持つ。
「りりかが忘れるはずないだろ、お前のこと……」
「りりかくん!」
すぐ傍に新郎がいるにも関わらず加納はりりかを強く抱きよせた。まあ、とどこかでみゆきが声を上げるのが聞こえる。
「加納先輩、来てくださって、ありがとうございます」
「僕はもう……君には会えないと、思って、いた」
強く強く抱きしめた彼女が、微笑むのがわかる。
「いつだって、私はここにいます。もうどこにも行ったりしない。私は生きてるんだもの」
君はやはりナースエンジェルだった。そして、今も。
「おめでとう……りりかくん……っ!」
ありがとうございます。そういったりりかの声は涙で詰まって掠れていた。