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エンターキーの行方

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仕事を終えて自宅のアパートに戻ったら、ひとりの少年が床にだらしなく横になってぐうぐうと寝ていた。テーブルのうえには、ビールやカクテルの空き缶が散らばっている。
「…こいつはよォ…」
 俺は溜息をついてから、床にひとつ転がっていた空のビール缶を拾ってテーブルに置いた。
 しゃがみ込んで、奴の顔をまじまじと見る。よく寝ているもんだ。うっすら笑い顔なのは、幸せな夢でも見ているのだろうか。
 しかし、気まぐれで合鍵を渡した途端、この様とは。
「おい、起きろ」
 俺は細っこい身体を軽く揺さぶった。すると奴は目を瞑ったまま、んう、と寝ぼけたような声をもらした。
「……静雄、さん、うう」
「なんだ」
「静雄さんが俺の名前、呼んでくれたら、起きます」
「紀田正臣」
「違いますよぉ。したの名前ですよぉ」
「まさおみ」
 どうせ酔っているんだろうと、言いなりになって素直に受け答えていると、奴はゆっくりと瞼を開いて、
「初めて、呼んでくれましたね………」
と言うなりまたうつらうつらと目を閉じた。
「おい、また寝るな!」
「すやすや」
「ふざけてんのか、てめぇは」
「へへっ」
 いたずらっぽくぱちっと目を開けたかと思うと、よろよろと上半身を起こして、俺に縋るように抱きついてきた。動物のように、すりすりと頭を押しつけてくる。その髪は柔らかく、俺のばさばさな金髪とはまるで違うものだった。
「…お前、なにやってんだ、ほんとに」
「静雄さんの帰りを待ってたんすよぉ」
「思いっきり寝てたくせになに言ってやがる。この酔っぱらい」
「……酔わないと」
「あ?」
「酔わないとやってらんねーって、大人はよく言いますよね」
「お前もそうだってのか」
「まあ、そんなとこです」

 こいつと俺は、知り合ったばかりだ。合鍵だって、本当はそんなものを渡すほど親交を深めているわけじゃない。数回身体を重ねただけ、本当にそれだけだ。俺はこいつのことをなにも知らない。知らないまま、この少年の無邪気な強引さと愛らしさに流されているのだ。
 ただなんとなくわかるのは、こいつは年齢に似合わない重たいものを抱え込んでるってことだ。そんぐらいは、俺でもわかる。見逃しそうなほどの瞬時のことだったが、ひどく陰鬱な横顔を見たことがある。どうかしたのかと声を掛けたら、もういつもの脳天気な笑い顔に隠されて、とぼけられてしまった。

「今日は帰りたくないのォ~」
 紀田はふざけて、俺にしがみついたままくねくねした女声で囁いた。
「最初っから帰るつもりがあるようには見えねえよ」
 もういいから寝ろよ、と俺はたしなめて、紀田の両腕を引っ張ってずるずるとベッドへ運んだ。
「ここはお姫様抱っこするところでしょお、だから静雄さんは駄目なんすよー」
「ああ、そうかよ」
 普通なら噛みつくところだが、酔っぱらいの憎まれ口にまともに相手をする気も起きない。
 奴はまだむにゃむにゃとなにか言いたげにしていたが、ベッドに潜り込むとそのまましっかり瞼を閉じて、あっという間に眠りについたようだった。

 こんな子ども相手に、俺はいったいなにをやってるんだか、自分でもわからねえ。下手すりゃ犯罪だろう。俺なんかが今更犯罪だとか言うのもちゃんちゃらおかしいが、こういうことはまた別として、モラルの問題だ。
 でも合い鍵を渡したことに、あまり後悔はしていなかった。小さな背中になにかを背負ったこいつが、この部屋を、俺を、避難所とするならそれもいい。こんな不毛な関係の奴がいても、悪くはない。どうしてそんな柔和な気持ちになれるのか、自分でも不思議だった。それは紀田正臣という人間の持っている魅力に、知らず知らず感じ入っているからかもしれなかった。

 これから俺とこいつは、互いを知り合っていくんだろうか。どこまで踏み込んでいこうとするんだろうか。未知数のそれを、遠いまなざしで少年の寝顔に重ねた。
作品名:エンターキーの行方 作家名:ボンタン