映画館
「ねえ、誰かいるの?」
暗闇の中、非常灯の光でじらじらと鈍く緑に染まる廊下には人影が一つ。ぶるぶると非常灯は唸って、聴覚をどんどん侵食してくる。ここはどこだろう。私は誰を探しているんだろう。心臓が恐怖という薄い膜で窒息しかけているみたいに、ばくばくと鼓動を打つ。そんなに高くないヒールで歩く足音が、いやに大きく響き渡った。自分で自分を脅かしているだけだ、落ち着けばいいと思ったが、あたりに散らばった硝子の破片が踏まれて「きゃあ」と高らかに声をあげる度に、思わず体がびくついた。早くこんなとこ出なくちゃ、という焦燥感が自分の恐怖を煽っていた。
「ねえ、誰かいるんでしょう。返事して」
真っ直ぐな廊下にはねかえる残響すら薄気味悪い。カラカラに乾いた口を潤すように、妙に生ぬるい生唾を飲み込んで、私はまた少しずつ進み始める。こうして同じような台詞を何度繰り返し、曲がり角で息を殺してのろのろと進む。私は一体どこにいるんだろう。誰か、誰か早く来て。こんなとこから早く逃げたい。誰か、私を助けに来て。誰か。
そう思った瞬間。
低い声をだらしなく「あああ」と発すような非常灯がぱっと消えた。
急に暗闇の深さが増した恐怖で、私は眼球が零れ出さん限り目を見開いた。ひっ、息をのむ。私が自分を抱きかかえるようにして、目線を下へやると、ほんの一二歩先に、真っ黒な廊下に根を張らんばかりの、ひょろりとした青白い裸足の足が剥きだしに立っていた。
誰か、いる。
私は、耳元で大きくなる心臓の鼓動を荒ぶる呼吸で押さえつけながら、少しずつ、少しずつ目線を上へとあげていった。体がガクガク震えて、流れる血液が冷たい。口が渇く。瞬きができない。人間の子供のように白い肢体が脚、腰、腕、胸と続き、
そこには―――
「だああああっ、もうムリだってばよ!!!!!!」
スクリーンから目を逸らし、映画館の薄暗闇でも眩しいばかりの黄金の髪をぶんぶん震わせて、口元を抑えたナルトが足早に出て行った。
「ちょっ…ナルトォ!あっ、あんた卑怯よ!」
顔面蒼白になって画面の中の女と同じように卒倒しそうなサクラは、逃げてしまったナルトを追い掛けるような素振りを見せた。が、あまりの恐怖に腰が抜けてうまく立てなかった。女の悲鳴が紙を引き裂くように響き、サクラは世界が歪むのを感じた。
「ま、待ちなさいよお…っ」
震えに震えた情けない声が絞り出される。まだ早かった。年齢まで偽って、18歳以上推奨のホラー映画なんか見るべきではなかったのだ。まさか、人間が存在しているのかもわからない幽霊などという存在だけを用いて、こんな恐ろしいものを創れるなんて思っていなかった。私は、人間をかいかぶっていた。そして、自分の恐怖へを耐性を過信していた。どうしてこんなトラウマを植え付けなくてはいけないんだろうと、映画を見る前に大言壮語を吐いた自分を恨んだ。
目を閉じているから状況はわからないが、粘性のある液体がぐちゅぐちゅと掻きまわされる音と、途切れ途切れになる女の悲鳴から、何が為されているのかはだいたい想像がついた。むしろ、自分の際限ない想像力においては映画そのものに負けないぐらいの恐怖映像がサクラの頭を支配していた。早く逃げたい。画面の中と女と全く同じことを、サクラは思った。
その時、
「サクラ」
と、優しい声が聞こえた。そして右手に春のように優しいぬくもりが灯った。サクラのひんやりと凍えた手に、じんわりとサスケの手のあたたかさが染み渡る。
「サ…スケ…くん」
途切れ途切れにしか呼べない自分の度胸のなさが恥ずかしい。それでも、サスケはやんわりとサクラの手を覆った。言葉じゃないぬくもりが、サクラの恐怖をゆるやかにさせた。
画面は昼間の喧騒へ切り替わり、物語は真相を語り始めた。どうやらこの映画の山場である恐怖映像のオンパレードは終わったらしい。サクラはほっと胸をなでおろし、ふと自分の右手に目をやった。サスケの手は未だ重ねられていて、サクラの恐怖に対する混乱からだろうか、その二つの手は官能的なまでに絡みあい、きつく結ばれていた。急に体の血が沸騰してしまったかのように暴れ出し、顔の熱がどんどん上がるのを感じた。サクラが少し動かしてみても、サスケはだだっ子がねだるようにうやうやしく握り返してくるだけで、映画が終わるまでその手がほどかれることは無かった。
スクリーンに映った薄気味悪い子供のように、サスケの顔は映像の光で真白く照らされていたが、その頬にはあの子供には無い、赤みがささっているようにサクラには見えた。