マレブランケの福音
日付も変わって数時間経つというこの真夜中に、ガンガンガンと無遠慮に扉を叩くのはどこの馬鹿だと思ったら野球馬鹿だった。こんな夜中に非常識すぎると突っ撥ねるべきなのは分かっている。だけど、オレは近所迷惑になるからと自分に言い訳をしてそそくさと玄関へと赴き扉を開ける。
「お前、一体何時だと思って……うわっ、酒臭ッ!」
「へへー、ただいまぁ」
べろっべろに酔っ払った山本が扉を開けるなり抱き着いてくるというよりも、倒れ込んでくるようにしてオレに体重を預けてくる。どこで飲んでたのか知らないが、よくこの状態でここまで辿り着けたもんだ。
「何がただいまだこの馬鹿。とりあえず靴脱いで入れよ」
山本の言葉に少し心臓が早くなるけど、オレがどんな状態でも今の山本は気付くことはないだろう。そんな状態で出た言葉というのにも問題がある訳なんだけど。そして、こんな状態でなくとも山本はいつだって深く考えて喋っていないに違いない。オレが勝手に言葉尻を捕らえてあれこれ考えているだけだ。
でもだってただいまだなんて言われたら、最後にはオレの所に帰ってくるんだって聞こえたってしょうがないだろ? まぁ、帰ってくるってことは出て行ってるということでもあるんだけど。
*
山本をソファに転がして冷蔵庫に冷やしてあるペットボトルの水を取りに席を外す。ほんの僅かな時間だったはずなのに、その少しの間に山本の姿がなくなっていた。
あんな状態でどこに行ったんだと思ったのも一瞬のことで、トイレから呻き声が聞こえてくる。視線をやると扉が開いて中から明かりがもれていた。
ペットボトルを持ったままトイレに行くと、便座を抱えるようにして山本が座り込んでいた。その背中を見て、お前オレが便座カバーをこまめに代えてることに感謝しろよなんて思う。
「楽になったか?」
「…………………………はけない」
「ああー?」
どうやらさっきから聞こえていた声は吐けなくて苦しんでいたものだったらしい。
「どんだけ飲んだんだよ……ったく」
「うー……」
オレの言葉に声にならないような掠れた声を出したが、別に返事は期待していない。そんな山本の後ろにしゃがみ込むと、右手を腹に左手を背中に当てて声を掛ける。
「おら、しっかりそのままの格好でいろよ」
手を動かして鳩尾の辺りを探るとオレはぐっと力を入れた。同時に背中を擦って促してやると、びちゃびちゃと黄色っぽい液体が山本の口から零れる。どうやら吐けないと言ってたのは胃の中に何も入っていないからだったらしい。
それでも一頻り胃液を口から垂れ流した山本はすっきりしたのか、その場に腰を下ろし背中を壁に凭れさせた。持っていたペットボトルの蓋を外して口元に持っていくと顎を反らしたから、ボトルを傾けてやる。喉が渇いていたからか、ごくごくと半分程をあっという間に飲み下す。ちょっと口元から水が零れているが、それぐらい構わないだろう。ただ、反らされた喉が無防備に動くのを、零れた水が首筋を伝うのを見て、言いようのない感覚に襲われる。
「んー、ごくでらぁ……」
全身ふにゃふにゃのくせに、思ったよりも強い力で手を掴まれて引き寄せられたかと思うと唇を塞がれた。そうかと思うとあっという間に舌が滑り込んできて、一応水を飲んだとはいえさっきまで吐いてたくせにテメー何しやがんだという声湧き上がってくるが、それでもこの唇を拒絶するということがオレには出来なかった。
酔っているからか山本はわりとあっさりオレから離れて再び壁と背中を引っ付ける。
「…………酸っぱい」
「ははっ、だってオレ吐いたもーん」
何とか捻り出したオレの言葉にろくでなしな返答を寄越す。マジでこんな最低野郎のどこがいいのか自分でも分からない。今までどこの女と飲んでたのか知らないけど、その後にオレの所に転がり込んで介抱させる、こんな最低な。
だけどどこが好きでどこが嫌いでなんて、そんな指折り数えるような時期はとっくに過ぎている。
「ごくでら、もっかい」
そんな風に言われたら、動けない山本へそろりと舌を伸ばすしかオレには選択肢なんてない。どっちにしてもさっきのキスで酔っ払ってるお前よりも素面のオレの方が煽られてるんだ。
両手を山本の顔を横について、閉じ込めるようにして噛み付くみたく口を合わせる。こんな時まで下らない独占欲を湧かしている自分に嫌気がさすがそんなことも今更だった。
首を傾けて貪るように舌を絡ませると山本も直ぐに応じてくる。最初からぐちゅぐちゅと鳴らすようなキスを押し付けるオレに、山本の手がオレの髪を掻き分けて耳の後ろに回され たかと思うと、突然ドンッと強い力で後ろに突き飛ばされる。
何かなんだか分からなくて、拒絶されたということに思考が止まりそうになっていたら、山本が再び便器に顔を突っ込んでおええと吐いていた。
(ああ、なるほど――――)
辛うじて残っていたオレの冷静な部分が状況把握を始める。口の中に吐かれるよりはずっとマシな行動と気遣いなんだと思うけど、現状が理解出来ても突き飛ばされた衝撃は消えずにオレの肩に残っていた。
それにまるでオレの唇が気持ち悪かったようにも感じられて最悪な気分だった。何でよりによってオレからキスをしている時に、なんて思ってしまって、山本を最低だとなじる前にそんなことを考えるオレが一番終わってるのかもしれない。
だけど浮かんだ思考はオレに行き渡る前に、再びオレによって奥深くに沈められるのだ。
2009.09.10