泣かないで笑って
「マミさんは、怖くなかったのかな」
まどかが落とした言葉が波紋になってさやかに伝わる。痙攣するように大きく震えて、さやかが首を振った。
「しんじゃったから、わかんないよ」
落とした言葉は思った以上の冷たさを握っていた。ソウルジェムは握ると少し温かい、子宮みたいな温度をしてる。でもグリーフシードは冷たい。すごくすごく寒い場所でずっと一人で泣いてたときの頬みたいに冷たい。
「誰でもあんなの、怖いよね…っ。マミさん、一人で戦って……あんな、笑顔で…」
まどかが首を振ると涙が零れた。さやかはいいなあ、とそれを眺めた。まどかはまだ人間だ。魔法少女じゃない。まだ化け物になってないから、きっとあんなに綺麗なんだ。
さやかは自分のことで精一杯で、いなくなった人間について考える余裕などとてもなかった。子どもっぽいと自分で分かっている。でも、もう大人になる日は来ない。
■
「巴マミは」
「ほむらちゃんっ!?」
音もなく、暁美ほむらが降り立った。なぜ暁美ほむらは毎度毎度人の背後を取るのだろう、戦略なんだろうか。さやかが乾いた瞳で暁美ほむらを見遣った。まどかは懐いているけど、あれだって人の皮を被った――いや、考えるのは止めよう。痛みなんて忘れてしまえばいいのだから。
「巴マミは、あなた達と会えて笑っていたわ」
「え……」
「巴マミがどんな願い事をして魔法少女になったのか、私は知らない」
「それは……家族が事故にあって……」
「事故に遭っても、願いによって魔法少女の特性は変わるわ」
死ぬのが嫌と、生きたいという願いにはかけ離れた距離がある。
「でもっ、どんな願い事だったとしても、マミさんは一人でずっと戦ってきたんだ……っ!」
さやかは喉から血が出るかもしれない、と思った。そうしたら少し厄介だ。今は変身していないし、ここはあの歪んだ魔女の空間でもない。掠れた自分の声を遠くで聞きながら、人間であることを煩雑に感じた。ほんの少しだけ。
「マミさ、いつも、笑ってた……怖かったり痛かったのに…いっつも優しくって……っ」
まどかが嗚咽を零す。またまどかが泣いている。よく笑う子だったのに、最近あまり笑顔を見てない。さやかの方がよほど笑う回数は多い。引き攣った笑顔でも、笑顔は力をくれるから。さやかはまどかが震えて身を縮め、しゃくりあげるのを眺めながら考えた。まどかは人間だから泣いても可愛い。でもまどかは人間とか魔法少女とかよりもっと、さやかにとっては「まどか」だった。まどか。くだらない話でだらだらいつまでも喋れた。さやかがふざけては笑い、さやかが辛そうにしていれば人一倍早く気がつく優しい子だった。いや、気付かなくったっていい、そんなの鈍くっていいんだ。さやかは昨日、鏡を割ったことを思い出した。自分の笑顔が、ちっとも笑えていなかった。見たくなかった。見たくないから割った。でもまどかは、まどかはにんげんでしょ、だから、そうだ。そうか。
「……私達がついていったことも無駄じゃなかったらいいね。ねえまどか、笑って」
「さやかちゃん…?」
「巴マミは、」
暁美ほむらが目を伏せた。なんでこの女は、いつも何かを言うとき目を伏せて一瞬迷ったような素振りを見せるんだろう。なのになんではっきりと言えるんだろう。なんで、そんなに、つよいんだろう。
「あなた達といられて嬉しかった。幸せだった」
亡くなるほんの少し前の、マミさんの明るい笑顔を思い出す。すがすがしいほどの戦いぶりだった。迷いもなく、格好よかった。もう何も怖くないと言った。痛くなければ怖くないから?いいや、違う。
「一人ぼっちじゃなかったよね、マミさん」
さやかの目から何度目かの涙が零れる。
「わらって、て、しあわせそう、だった……っ…」
久しぶりに痛覚が動いている気がする。胸の奥のほうがぎりぎりぎりと痛い。締め付けられるみたい。
「魔女にもならなかった」
「そんなっ……死んだ方が良かったみたいな言い方やめて、ほむらちゃん」
ちがう、ちがうよまどか。ちがう。人間だから分からないの?
「死んだ人は生き返らないわ」
暁美ほむらが髪をすくって後ろへ押しやった。さやかは暁美ほむらの黒くて長い、重たげな髪が魔女の触手みたいに見えた。暁美ほむらはなぜ魔法少女のままで居られる?
「ひどい……っ!そんなのって……」
「……私は言い方を間違えた。ごめんなさい。生きている人間が、あなたが楽になる方が大事」
「それってどういう……」
まどかが手を伸ばす。暁美ほむらは首を振っていなくなった。くるときもいなくなるときもあっという間だ。
「つまりー」
さやかはわざと大きな声を出した。まどかの肩が跳ねる。
「私達がマミさんに会えたことで、ちょっとだけでもマミさんは幸せだったら、ほんの少し、すこーおしだけ私達がマミさんを思うとき、楽になるよねってことじゃない?」
「え」
「マミさんが死んじゃったことは変わらないけど、もっともっと最悪なことがあるって分かったから。マシっていうと変だけど」
さやかが頭の後ろで手を組んで笑う。歯を出して笑う。いびつでぎこちなくて、晴れやかなんてもんじゃないけど。
「一人ぼっちで戦い続けて一人ぼっちの魔女になって、倒されるまでずっと一人より、ずっと」
私なんかよりずっと。
「マミさんは絶頂の時に死ねたんだから幸せだよ」
ぽたぽたと雫が落ちていく。まどかの涙だ。まどかは本当に泣き虫だ。
「なんでそんなこというのさやかちゃん」
「そうじゃない」
子どもじみた嫉妬だってことは知ってるだけど一生大人になれない。
「さやかちゃんまるでキュウべえみたいだよ…っ」
ほんの少し痛い気がした。でもたぶん気のせいだ。
「うん、私も人間じゃなくなってるから、あっち側の理論の方が分かりやすいんだろうね」
「そんなつもりじゃっ……!」
「とにかく、マミさんに関しても私に関しても、まどかが気にすることなんてないんだから!」
ね!とさやかが身を乗り出してまどかに念を押す。
「でも…」
「でもじゃない!」
まどかは人間だ。さやかは魔法少女だ。そこの線引きだけは、忘れちゃいけない。
「マミさんも私も暁美ほむらも杏子も、みーんな覚悟はどっかでしてきたんだから!自分で戦うってさ」
まどかはしあわせになって、とさやかはなぜか一番言いたかったことを言えなかった。
マミさんにとって一番幸せだったかもしれない時間が齎されたこと、
魔法少女になっても幸せになることができたんだということ。
さやかは魔法少女になってようやく「奇跡」があったんだと信じられそうだった。
「じゃーさっさと今日も魔女退治行きますか!」
「ま、まってさやかちゃん…!」
「もー、まどかおっそーい!」
走り出してから、立ち止まる。振り返って、まどかを見る。ちょっと走っただけで息を切らして、まどかは本当に普通の女の子だ。マンションの中から零れた光がまどかの顔にかかる。さやかの顔は、逆光の位置で黒く闇に沈む。それでも、笑おう。笑おう。マミさんは最後まで笑っていたから。マミさん。私、もうちょっとがんばるから。がんばるから。見ててください。
「……さやかちゃんが笑った顔、久しぶりに見た気がする」
まどかが落とした言葉が波紋になってさやかに伝わる。痙攣するように大きく震えて、さやかが首を振った。
「しんじゃったから、わかんないよ」
落とした言葉は思った以上の冷たさを握っていた。ソウルジェムは握ると少し温かい、子宮みたいな温度をしてる。でもグリーフシードは冷たい。すごくすごく寒い場所でずっと一人で泣いてたときの頬みたいに冷たい。
「誰でもあんなの、怖いよね…っ。マミさん、一人で戦って……あんな、笑顔で…」
まどかが首を振ると涙が零れた。さやかはいいなあ、とそれを眺めた。まどかはまだ人間だ。魔法少女じゃない。まだ化け物になってないから、きっとあんなに綺麗なんだ。
さやかは自分のことで精一杯で、いなくなった人間について考える余裕などとてもなかった。子どもっぽいと自分で分かっている。でも、もう大人になる日は来ない。
■
「巴マミは」
「ほむらちゃんっ!?」
音もなく、暁美ほむらが降り立った。なぜ暁美ほむらは毎度毎度人の背後を取るのだろう、戦略なんだろうか。さやかが乾いた瞳で暁美ほむらを見遣った。まどかは懐いているけど、あれだって人の皮を被った――いや、考えるのは止めよう。痛みなんて忘れてしまえばいいのだから。
「巴マミは、あなた達と会えて笑っていたわ」
「え……」
「巴マミがどんな願い事をして魔法少女になったのか、私は知らない」
「それは……家族が事故にあって……」
「事故に遭っても、願いによって魔法少女の特性は変わるわ」
死ぬのが嫌と、生きたいという願いにはかけ離れた距離がある。
「でもっ、どんな願い事だったとしても、マミさんは一人でずっと戦ってきたんだ……っ!」
さやかは喉から血が出るかもしれない、と思った。そうしたら少し厄介だ。今は変身していないし、ここはあの歪んだ魔女の空間でもない。掠れた自分の声を遠くで聞きながら、人間であることを煩雑に感じた。ほんの少しだけ。
「マミさ、いつも、笑ってた……怖かったり痛かったのに…いっつも優しくって……っ」
まどかが嗚咽を零す。またまどかが泣いている。よく笑う子だったのに、最近あまり笑顔を見てない。さやかの方がよほど笑う回数は多い。引き攣った笑顔でも、笑顔は力をくれるから。さやかはまどかが震えて身を縮め、しゃくりあげるのを眺めながら考えた。まどかは人間だから泣いても可愛い。でもまどかは人間とか魔法少女とかよりもっと、さやかにとっては「まどか」だった。まどか。くだらない話でだらだらいつまでも喋れた。さやかがふざけては笑い、さやかが辛そうにしていれば人一倍早く気がつく優しい子だった。いや、気付かなくったっていい、そんなの鈍くっていいんだ。さやかは昨日、鏡を割ったことを思い出した。自分の笑顔が、ちっとも笑えていなかった。見たくなかった。見たくないから割った。でもまどかは、まどかはにんげんでしょ、だから、そうだ。そうか。
「……私達がついていったことも無駄じゃなかったらいいね。ねえまどか、笑って」
「さやかちゃん…?」
「巴マミは、」
暁美ほむらが目を伏せた。なんでこの女は、いつも何かを言うとき目を伏せて一瞬迷ったような素振りを見せるんだろう。なのになんではっきりと言えるんだろう。なんで、そんなに、つよいんだろう。
「あなた達といられて嬉しかった。幸せだった」
亡くなるほんの少し前の、マミさんの明るい笑顔を思い出す。すがすがしいほどの戦いぶりだった。迷いもなく、格好よかった。もう何も怖くないと言った。痛くなければ怖くないから?いいや、違う。
「一人ぼっちじゃなかったよね、マミさん」
さやかの目から何度目かの涙が零れる。
「わらって、て、しあわせそう、だった……っ…」
久しぶりに痛覚が動いている気がする。胸の奥のほうがぎりぎりぎりと痛い。締め付けられるみたい。
「魔女にもならなかった」
「そんなっ……死んだ方が良かったみたいな言い方やめて、ほむらちゃん」
ちがう、ちがうよまどか。ちがう。人間だから分からないの?
「死んだ人は生き返らないわ」
暁美ほむらが髪をすくって後ろへ押しやった。さやかは暁美ほむらの黒くて長い、重たげな髪が魔女の触手みたいに見えた。暁美ほむらはなぜ魔法少女のままで居られる?
「ひどい……っ!そんなのって……」
「……私は言い方を間違えた。ごめんなさい。生きている人間が、あなたが楽になる方が大事」
「それってどういう……」
まどかが手を伸ばす。暁美ほむらは首を振っていなくなった。くるときもいなくなるときもあっという間だ。
「つまりー」
さやかはわざと大きな声を出した。まどかの肩が跳ねる。
「私達がマミさんに会えたことで、ちょっとだけでもマミさんは幸せだったら、ほんの少し、すこーおしだけ私達がマミさんを思うとき、楽になるよねってことじゃない?」
「え」
「マミさんが死んじゃったことは変わらないけど、もっともっと最悪なことがあるって分かったから。マシっていうと変だけど」
さやかが頭の後ろで手を組んで笑う。歯を出して笑う。いびつでぎこちなくて、晴れやかなんてもんじゃないけど。
「一人ぼっちで戦い続けて一人ぼっちの魔女になって、倒されるまでずっと一人より、ずっと」
私なんかよりずっと。
「マミさんは絶頂の時に死ねたんだから幸せだよ」
ぽたぽたと雫が落ちていく。まどかの涙だ。まどかは本当に泣き虫だ。
「なんでそんなこというのさやかちゃん」
「そうじゃない」
子どもじみた嫉妬だってことは知ってるだけど一生大人になれない。
「さやかちゃんまるでキュウべえみたいだよ…っ」
ほんの少し痛い気がした。でもたぶん気のせいだ。
「うん、私も人間じゃなくなってるから、あっち側の理論の方が分かりやすいんだろうね」
「そんなつもりじゃっ……!」
「とにかく、マミさんに関しても私に関しても、まどかが気にすることなんてないんだから!」
ね!とさやかが身を乗り出してまどかに念を押す。
「でも…」
「でもじゃない!」
まどかは人間だ。さやかは魔法少女だ。そこの線引きだけは、忘れちゃいけない。
「マミさんも私も暁美ほむらも杏子も、みーんな覚悟はどっかでしてきたんだから!自分で戦うってさ」
まどかはしあわせになって、とさやかはなぜか一番言いたかったことを言えなかった。
マミさんにとって一番幸せだったかもしれない時間が齎されたこと、
魔法少女になっても幸せになることができたんだということ。
さやかは魔法少女になってようやく「奇跡」があったんだと信じられそうだった。
「じゃーさっさと今日も魔女退治行きますか!」
「ま、まってさやかちゃん…!」
「もー、まどかおっそーい!」
走り出してから、立ち止まる。振り返って、まどかを見る。ちょっと走っただけで息を切らして、まどかは本当に普通の女の子だ。マンションの中から零れた光がまどかの顔にかかる。さやかの顔は、逆光の位置で黒く闇に沈む。それでも、笑おう。笑おう。マミさんは最後まで笑っていたから。マミさん。私、もうちょっとがんばるから。がんばるから。見ててください。
「……さやかちゃんが笑った顔、久しぶりに見た気がする」