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春の筆跡

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 辞書を忘れた。無くとも授業に支障は出ないと解っていたが、彼は無理を言ってかすがに借りた。眉間に皺よよせて、本当はその癖を直さないと貴方が将来困るのだから、という感情を上手く伝えきれずにつっけんどんに辞書をよこす時に揺れた金色がある。彼は彼女の真意を嬉しく汲み取りつつ、その美しさを眺めた。ごめんごめん、うけとった辞書はずしりと手に重力をあずけてくる。重いとその人の大切なものなような感じがするなあ、彼は思った。もちろん勘違いだ。 彼は笑った。

 日が落ちかかり誰もいなくなってしまった教室を真っ赤でやわらかな光が注ぐ頃、彼はまだ教室にいた。深い緑の色でいかにも学習的な雰囲気を漂わせる辞書はまだ持ち主の場所へ戻っていない。無作為にページをめくって、単語を探すわけでもなくただ眺めた。口笛を吹く。美しい子だと思った。水と水とが出会う場所で作られたようなすべらかな肌が、たまに自分のことで赤くなってくれるのが嬉しかった。よく澄んだ瞳が、何かを真摯にみつめてきらめく様は眩しかった。

 えへへ、と笑いながら彼は辞書のある単語の横に赤いペンで二重線を引く。強調の意味である。えへへえ、ふふう。彼女はいつか恋に胸を痛めるあまりこの単語を探すのだろうか、と彼は考える。見覚えのない赤線に困惑する彼女を想像する。えへへ。季節のにおいを感じ制服のセーターをひっぱった彼は、少し考えてその隣に自分の筆跡を書き足した。凍てつく世界の後に生まれる暖かな風と芽吹く花々、川に流れる清い雪溶け水。そんな春の一瞬を切り取って閉じ込めた君の名前は美しい。
 おまえは綺麗だと、佐助は笑った。
作品名:春の筆跡 作家名:ゴミクズ