Salvation by faith
ゾーンの人工声帯で濁っている声は、アポリアを浮上させるのに最も適した音だった。ゾーンが名前を呼ぶとアポリアはさっきからずっと閉じられている瞼を一瞬だけ反応させる。その動作にいちいちほっとする。動いている限り、彼はまだ自分を置いていってはいないからだ。
「…アポリア」
アポリアはゆっくりと目を開ける。先程まで死んだように眠っていたとは思えないほど明るい声で「夢だったのか」と呟いた。乾いた頬を滴がたれていくのをみたゾーンは彼がまた悪夢をみたのだと判断する。せめて熱い涙をぬぐってやりたいが機械の義手では彼の涙をぬぐうことはできない。
アポリアは、悪夢にうなされるようなことは一度もなかった。うめきすらあげない。その代わり、ただ静かに涙を流すのだ。夢から覚めても、捻るのを忘れた蛇口のようにたださめざめと泣き続ける。「大丈夫ですか」ゾーンがそう聞くとアポリアは袖口ですばやく涙をぬぐってしまって「昔のことだ」と気丈に振る舞うので、せめて彼の気のすむまで泣かせてやりたいと思うゾーンは次第に沈黙するようになった。そうして自分の、大切な友が苦しんでいるというのに抱きしめてもやれない身体をそうとう恨んだ。
ゾーンは、ただ見守るだけだ。
涙をぬぐってやることもできず、苦しみを共有してやることもできず、見守るだけ。アポリアが悪夢から目覚めたあとが、強く自分の無力を感じる瞬間だった。
「ゾーン…」
しかし今日は、少しいつもと違うようだった。
アポリアは震える手をゾーンに伸ばした。ゾーンはそれの意味することが理解できずに困惑する。アポリアはぴんと腕をはった。ゾーンにはそれが助けを求めている人々の姿と重なってみえた。助けてくれ、遊星、と叫んだ青年の声。一度はつかんだのに救えなかった女性の手。気づけばゾーンは頼りない機械の腕でアポリアの手を握り返していた。
「許してくれ、キミが…」アポリアは体を起こして祈るようにゾーンの手を額につけた。懺悔だとゾーンは直感する。「死ぬ夢をみた」
「私が…」
「私は、怖かった……すまない、許してくれ…ゾーン……」
アポリアはひたすら謝り続ける。なにもそんなことで苦しまなくてもいいのにとゾーンは思った。むしろ自分が悪夢の原因だったのかと自分こそ謝りたい気持ちでいっぱいだった。アポリアは死に怯えているのだ。そしてそれは無理もないことだった。お互いある日突然、眠ったように死んでもおかしくないくらいの寿命だ。ゾーンが一番危惧していることだが、アポリアも同じらしい。
「アポリア、まだ私は生きている」
そう言い聞かせてもアポリアは懺悔を止めようとはしない。ゾーンがいくら宥めても、頭をたれて沈痛な言葉を吐き出し続ける。やがてアポリアは「聞いてくれないか」と小さな声で呟いた。ゾーンには断る理由などない。むしろ嬉しかった。内容が不吉だと気にもならない。アポリアが夢の内容をゾーンに喋るのははじめてのことだった。
「私は、キミが死んでから…。キミの死が恐ろしくなり、また嘘だとも思いたくて…1日たってから、キミがもう二度と動かぬ体になったことを思い知った…。キミをそこから出してあげたかったのだが私の力では、それは叶わぬことだった…あぁすまない、死んだあともキミをこんなところに閉じ込めたままなんだ…こんな暗いところで……」
ぽつぽつと語り始めた内容は、だんだんと夢と現実がごちゃ混ぜになってきていた。おそらくアポリアにはもうどちらが現実なのかわからないのだろう。夢の内容を語りながら、夢の内容を再現している。
あまりの苦しげな表情にこのまま話させていいのかと不安になったが、まずは彼にすべてを吐き出してもらいたいという気持ちの方が勝っていた。ゾーンはなるべく優しくアポリアの手を握り返した。
「…それで貴方は…どうしたのですか」
「私は…泣いた。泣き続けた。キミすら失い…この世にたった一人取り残され…失意のどん底に突き落とされた私は…」
自殺したのだ。
アポリアが吐き出した言葉はゾーンにとっていくらか衝撃だった。ゾーンは冷たい仮面の奥からアポリアの様子をうかがった。頼む、とアポリアはゾーンの青い目を見つめ返した。
「キミが死ぬ前には、私を殺してくれ」
「なにを…言うのです」
「私は、キミがいなければ生きていけない弱い人間なんだ。軽蔑してくれてかまわない。私はキミ達が人生をかけて研究し続けてきたものを踏みにじったのだ」
幾度となく絶望を味わい続けたアポリアはいつもどこか神経衰弱気味だった。一番遅くに加入し、能力や年期の違いからゾーン達の研究にあまり立ち入ることができなかったことをとても悔やんでいた。先陣をきってパラドックスが亡くなったときは、どうして自分じゃなかったのだと嘆き悲しみ、アンチノミーに張り倒されていたりもした。「そんなことを言わないでくれッ」そう言って泣きながら倒れたアポリアを抱きしめたアンチノミーが亡くなったときですらやはりアポリアは同じ言葉を繰り返した。アポリアが恐れているのは、ただの元兵士でしかない自分が最後に取り残されることだった。
「どうして私じゃなかったのだ」
ゾーンと二人取り残されたとき呟いたアポリアの声を今でもよく覚えている。
「ゾーン…。キミは…」
あのときの目も。
だからゾーンは言わなければならなかった。それは悪夢だと。自分は死ぬわけにはいかないのだと。
「私は、死にません。この世界を救うまでは」
それが英雄としての使命。
「だから安心してください」
アポリアは顔をあげた。今さら自分の祈っている正体に気がついたようにゾーンのわずかにみえる青い目を凝視した。古代の生物であるアンモナイトにもみえる白いフライングホイールに取り付けた生命維持装置により、たしかに彼は当分死ぬことはないだろう。アポリアが寿命で死んだあとも、死ぬことは許されないのだ。仲間の棺に囲まれながら、自分の無力さを自覚しながらたった一人で孤独な研究を続けなければならない。
彼に残された人格が叫び続けている。犠牲になるのは自分だけでいい。未来を救わなければ。彼が仲間と交わした約束が縛り続けている。必ず未来を救ってくれ。お願いだ。
だからゾーンは人間であることさえやめた。
アポリアの顔がゆっくりと歪んだ。「私は…キミになんてことを…」死ねない男に殺してくれと頼んでしまったのだ。自分だけ楽な道を選んでしまった救いようもないエゴだ。しかし相変わらずアポリアをみつめる目はやさしかった。
「今は少し休んでください。今度はよい夢をみられるように」
幼子をあやすように頭に手を添えた。よい夢をみられるおまじないだ。こんなときでさえ、ゾーンは肉ではなく機械の腕であることにむなしさを覚える。アポリアはゾーンを気にしながらもやがて目を閉じた。目を閉じるときにまた一筋涙が伝った。ゾーンはそのあとが乾いていくのをずっと待っていた。今度こそ、このやさしくてかよわい彼の頬が濡れませんように。ゾーンは再びアポリアが再び目覚めるまでそこを動こうとはしなかった。
110305
作品名:Salvation by faith 作家名:えーじ