春のはなし。
木々は、時折吹くゆるい風に新緑を揺らして、鳥たちは美しく羽ばたく。木漏れ日が眩しく感じる穏やかな午後。
三階建ての中央校舎の最上階、見晴らしも日当たりも校内で最上級の場所に鬼道はいた。諸々の手続きの最終確認の途中なのだ。品のいい明るいパープルの絨毯にふかふかの革張りのソファ、リガールのティーセットの中に落ち着く美しいダージリンの色味。時間はゆったりと流れ、華やぐ香りと共にそれをゆっくりと口につけていた。
理事長室。
あくまでも、鬼道財閥の跡取り息子というお題目での転入に、雷門側も最大限の気を回したのだろう。ここ三日、放課後に呼び出されるのは職員室でも校長室でもなく、此処だ。
鬼道が望む、望まないにかかわらずそれは権力や家柄の前では仕方の無いことであった。
先ほどまでお茶の相手をしてくれていた夏未も黒服の呼び出しを受けて今はいない。特別扱いを拒む傾向にある鬼道も、たったひとり、この広い部屋で、いつに無く穏やかな心持でいられた。
雷門だって確かな家柄であるのだ。学校、病院の経営を軸にした名の知れた名家で、今の総理大臣とも深い繋がりがあるらしいというのを鬼道は知っていた。それも手伝ってか転校は思いのほか上手くいった。広く一般から学生を受け入れている雷門への手続きは当初父の反対を受けるかも、とも予想したが、トップ逮捕を水面下に受けて(学園はそれを表沙汰にはしなかった)揺らぐ帝国学園の名前よりも、父は現政界への太いパイプを手に入れたかったらしいと鬼道は思う。どのみち、ウィンウィンだ。親類縁者への聞こえも雷門なら問題ないだろう。
それよりも鬼道は、自然あふれる郊外のなかの地域に根ざしたこの学校を非常に気に入っていた。影山への嫌悪も含まれるとは思うが、あの殺伐としたグレーの色彩の中の近代建築な帝国学園よりも、こちらのほうが、朴訥ではあるがよほど人間的だと思うのだ。
この場所からはサッカーグラウンドが一望できる。ひかりは眩しく降り注いで、重厚な設えの応接テーブルにくっきりとした影を作った。風は勿論感じられないけれど、あの場所で走ったらどんなに気持ちが良いだろうかと、鬼道は紅茶を口に含ませながら思う。
「きーどーう!!」
鼻に抜けた独特の香りを楽しんで、カップを戻したところで、聞きなれた、しかし場違いな声がした。
鬼道は思わずむせ掛けて声のほうを振り向く。其処は扉だった。
「円堂?」
教室のどれとも違う、美しい彫刻のある木製のドアを開けば予想通り円堂がいた。
当たり前みたいにユニフォームで、今にも駆け出しそうにそわそわしている。春風のようだ。鬼道が「どうした」、と問いかける前にそれはさらう様に喋り出した。
「探してたらさ、夏未がここにいるからって云うからさ。ふぇー、理事長室って俺初めてだぜー!普通じゃ入ることってないからなー!」
「どうした」
ボールこそ持っていないが、円堂はピッチの上のあの表情で中を覗いている。好奇心の塊なのだろう。鬼道は少しだけその様子に微笑むと、「入るか」と促した。
ひとりは、ふたりになった。
夏未が此処だって言うから来たんだもんな、別に怒られたりはしないよな、と円堂は喋るだけ喋り、窓の外を覗き、ぐん、と伸びをして最終的に鬼道の隣に収まった。いまは、お茶請けのクッキーをさくさくとつまみながら、なんか特別だな、と笑っている。
「それで、何か用なのか?」
今にも目的を忘れそうな我等がキャプテンに鬼道は言葉を促した。この感じからして急用ではなさそうだと察知したので、彼はお茶の続きを愉しみながら。
円堂は一瞬きょとんとして、視線をずらし、そうそう…とポケットを探り出した。矢張り忘れていたらしい。
「これ、さ」
鬼道の目の前に、ぴんと張られた丁寧に編まれた紐。
「じゃーん!ミサンガ!!」
鮮やかなブルーと眩しい黄色の糸で編まれた、願掛けの紐。
「右手出して」
サッカーをやっている以上、それは当たり前のような産物であった。勿論鬼道も目にしたことはあった。しかし、完全勝利を目的とした帝国のサッカーには願いなど不要だと、影山の一声で一度も手にしたことは無かった。
「アキたちがさ、手作りで作ってくれてんだ。俺の付けてんのはじいちゃんがつけてたやつの紐を戻して編んであるんだって。色も一緒でさ、雷門カラー!神頼みはさ、俺あんま好きじゃないけど、でもこれはみんな一緒に持ってるだろ?怪我とかさ、そういうの無いようにって、いう、か。もう、さ」
円堂は、奪うように鬼道のてのひらを取って、その右の手首に巻きつけていく。端のほうがすこしいびつで、それが逆にあたたかかった。鬼道は夢でも見ているみたいにぼんやりと、何も云わずに彼の言葉を聴いていた。
コトリコトリ、体内を流れるみたいに、響いていく言葉。
「仲間だろ、俺たち。」
先は不器用な団子結びで綴じられた。何度も端を引っ張るので、そのたびに稲妻の模様が軋んだ。出来た!と円堂は満足げに大きく微笑む。
「鬼道のは、特別に俺も参加したんだぜ?ほら、その端、どう見ても歪んでるだろ?それ俺!」
まぶしかった。
キラキラしていた。
はじめて出会った、練習試合の時の光を思い出した。
同時に、そんなものはいらないと吐き捨てた影山の残像もちらついた。
鬼道は、どうしようもなく、胸が潰されて、言葉を零したら崩れてしまいそうで、懸命に口の端を持ち上げて笑った。
手に、触れた熱があつい。
それは血肉になるのだろうとおもった。彼の言葉たちは血管を通り体内に流れ自分になっていく、忘れないように。
「ありがとう」
春風に、促され、長い長い沈黙のあと、鬼道が嘘みたいに小さな声でそう伝えた。円堂はただそこにいて、にっこりと、変わらずに笑っていた。
鬼道は、自身が穏やかになっていくのを、孤独や寂しさをもう感じなくて良いのだということを、どこかでおもっていた。ずっとずっと深いところで。
右手が光に揺れる。もう、こわいものなどないのだと、そう思った。