ドミノ
口から零れ落ちる言葉のひとつひとつに嫉妬の陰が潜んでいるのではないかと自分でも思った。
「…千歳聞いとるか?」
覗き込むように白石が顔を寄せる。綺麗な切れ長の目と視線が交わり、一瞬くすぶる気持ちを見透かされたような気がした。しかし白石は小首を傾げると、また元の場所に戻って行く。部活でも教室でも白石の隣はいつだって決まっているのだ。
いつだったか白石が一人部誌を書きながら、昔話をしてくれたのを思い出す。俺は2年から大阪に来たばかりで、誰一人知り合いがいなかった。勿論学校でも友人は作らず、言葉の壁を心底面倒だと感じた。寂しいとか辛いとか、そういったことは感じなかったが、ただひたすら居心地の悪さのようなもどかしさを抱えてラケットを振る毎日。テニスをもう一度やりたいがために遠い大阪まで来たというのに、そのもどかしさに足を捉えられていた。周囲の人間は県民性というか、右も左もわからない素振りを見せるとすぐに親切を、悪くいえば押し付ける形で近づいてくる。最初の頃はいちいちそれに対して感謝もしていたが、次第にそれも上手くかわせるようになった。そうすると周囲の人間も勘付いたのか、下手な押し売りをちらつかせることもなくなった。一人減り二人減り。最低限の人間関係の中で呼吸をすることに慣れると、もどかしさはゆっくりと消えていった。
「自分、一人好きやなあ」
ボールペンを器用にくるくると回しながら、鞄を掴む俺に唐突に話しかける白石の声は大きな独り言のようだった。関西の人間は他人を指すときに「自分」ということを何となく理解はしていたものの、事務的な連絡以外で白石が俺に話しかけることがなかったので咄嗟に声は出なかった。白石はこちらに身体を向けると、もう一度同じことを言う。聞こえとうよ、と返事をするとむっとした顔でこちらを睨んだ。
「なら返事せえよ」
「…すまん」
白石はまた机の方に向き直ると、ペンを走らせた。部長、という立場を抜きにしても人に好かれるタイプ。そういう人間には、俺のようにあまり深く人と関わらない人間は一人好きに見えるのか、と妙に納得した。
「自分すごいなあ」
「何が?」
「んー俺にはマネ出来んなって」
「だから何ね」
いつのまにかペンを置き、目の前に立つ白石の目はいじわるく光っている。
「寂しいくせに一人でおれること」
びっくりして掴んでいた鞄を落とすと、床にぶつかった鈍い音が部室に響いた。蛇に睨まれた蛙のように、全身が凍ったように動かなくなる。
「俺も昔は自分みたいに避けとったで、煩わしいモン。でもそれだけじゃあかんなーって思ったし、ほら忍足っておるやろ。あいつとは小学校から同じやってんけどあいつなーほんま裏表なく誰とでもほいほい仲良くなれんねん。そういうの側で見とったら悔しゅーてな。でも謙也みたいに今更なれへんからこうして上手いこと世渡りする術を身につけたっちゅーことや」
淡々と話しながら白石は俺の背後にあったロッカーから自分の鞄を取り出すと、机に置いてあった部誌を閉じた。
「千歳クン、愛想笑いは上手にせな意味ないで」
鍵は職員室な、と白石はドアノブに手をかけ、部誌をひらひらとさせながら帰っていった。誰もいない部室に取り残された俺は、胸がぐっと絞められたような痛みを抱えながら、震える手を押さえていた。
3年になっても、実際大きな変化はなかった。浅瀬でのんびりすることは強がりでも何でもなく、自分の性格にあっている。無理矢理に自分のスタイルを変えることに対して努力をすることは馬鹿らしい。ただ唯一変わったのは自分でも信じたくないような気持ちだろうか。人の心を読み取ったり、感じ取ったりすることは自然としてきたことだったが、反対に自分の心を見透かされるのは苦手だったし、嫌悪してきた。それなのに、白石には不思議と許せるような気がしたのだ。あれから白石が裏の顔を見せることは一度もなかった。誰の前でも平等に、唇の弧をきれいに描いた笑顔。誰もそれを信じて疑わない。いつの間にかクラスメイトも、部員も俺を呼び捨てで呼ぶようになったのはきっと白石が呼び捨てで呼び始めたことに起因している。そして俺がただサボり癖のある問題児ではなく、そこはかとなく親しみやすさをもっているのも然り。付け焼刃のような脆いレッテルだから、ちょっとしたことできっとそれはダメになってしまうだろう。それでも不思議と白石以外の人間の前では上手く笑える。郷に入っては郷に従え。あれほど煩わしいと感じていた会話も、テンポさえ掴めばなんてことはないのだ。
白石の口から謙也の名前を聞かない日は1日もなかった。幼馴染、そして今は同じクラス。彼らが親しいことに何も問題はないはずなのに、互いの口から名前が聞こえる度に埋められない溝を見せつけられていると思った。とんだ被害妄想だと自分でもおかしくなるが、その被害妄想の元に眠るものは気づきたくもなかった。
「随分疲れた顔しとるで」
はっと顔をあげると、机に倒れこんでいたようだ。すっかり部室は空っぽで、白石は帰る支度をしている。
「やっぱ寮暮らしって大変なんか?何かあったら言いや」
じゃあ、と白石は背を向けて部室を出ていく。その姿が1年前のあの姿と重なり、衝動的に肩を掴む。力の加減が出来ず、白石もバランスを崩したのか床に尻もちをつく形で崩れていった。怒りの孕んだ声がするが、顔はいつも通り端正であり、目もあのときの目ではない。
「しらいし」
「ったいなー…何すんねん。呼ぶときは声かけろや」
「白石はすごかね」
何がや、と埃を払うようにして立ち上がる白石の首元をぐいと掴む。吐いた空気がすぐ伝わる距離で、視線が合う。
「寂しくないのに寂しい振りすっこと」
傷ついた顔をするかと少し期待をしていた。いつもきれいに描く口の弧は歪になり、目には熱く羞恥の火がちらつくのではないかと。目の前の男は少し俯くと、襟元を掴んでいた俺の手の上から自身の手のひらをゆっくり重ねた。
「バレたか」
こちらを見る目はあの時の目だった。いじわるく光り、俺を見透かす。
「千歳、愛想笑いは上手にせな意味ないで」
重ねられた手から伝わる温度がひどく冷たくて痛々しかった。このまま口を塞ぐのは容易だろうに、俺の寂しさが邪魔をして、指がゆっくり解けていくのを他人事のように見ている。