月夜
深夜。満月。星たちは控えめに輝き、あくまでも月の引き立て役に徹している天。一陣風が吹けば、木々はそれぞれに木の葉を奏で、夜は静かながらも決して無音ではない。
清浄な夜気を生み出す竹林に囲まれたシンドウ邸の道場。道場の正面はぽかりと空間が開いていて、そこには竹林の飾りのように大きな庭石が一つ置かれていた。
その庭石に腰掛けた白い影は、月明かりを一身に浴びて、一心に満ち満ちた月を仰いでいた。
スガタは道場の格子窓から、決して影に気付かれないように息を潜めてその様を見ていた。
スガタがこんな時間にこんな場所にいるのは今日が初めてではない。
ここ最近、夜眠れない。その原因は分かっている。しかしそれが解決されることはないだろうということも分かってた。
浅い眠りをくり返し、不意にが覚めてしまえば再び眠るのは困難だった。少しでも眠れるようにと、近頃の夜は床を抜け出して真夜中の道場で身体を動かすようになっていた。タイガーたちは気遣わしげな眼差しはするものの、止めはしない。
今晩も同じで、そしていつもと変わらず終わるはずだった。
夏と秋の中間の今、昼間は暑く夜はいささか冷える。上着を羽織り道場へ赴き、そして軽く動いてまた寝床に戻ろうとした時、あの白い影がふらりと現れたのだ。
スガタはその白い影の正体を知っている。この邸に居候をしている同級生であり、友人であり、そして、スガタの不眠の原因である。
春の浜辺に流れ着いた外の人間、ツナシ・タクト。
それが白い影の正体だ。
今日はいつも着ている寝巻きが乾いていないからと、ジャガーに代わりの着物を渡されていた。白い着物とその赤髪はきっとお互いを映えさせるだろうなと思った。
鮮やかな赤髪の輪郭を、青白い月光が縁取っている。
その身に纏っている寝巻きの白い着物も淡光を放っていて、彼自身が無数の光りの集合体であるかのようだった。
触れれば一瞬で霧散してしまうかもしれない。
彼が生身の人間であることを知っているのに、そんな風におもってしまうほどの儚さを、彼は纏っていた。
もしも彼が消えてしまったら、形あるものはほとんど残らないのではないか。スガタはそう思っている。
彼が持っていたものは先日の火事でそのほとんどが燃えてしまった。そして、唯一無事だった彼の母親の形見である懐中時計も、今は彼の手を離れ、自分たちにとって大切な少女の元にある。
彼が今持っているのは、その身一つと言っても過言ではないのだ。その身すら綺羅星との戦いに投じてしまっている。
それに気が付いたとき、スガタの身にこれまで感じたことのない恐怖が襲った。
(まるで、与えるためだけに、存在しているような)
本人に知られれば何を言っているんだと一笑されて終わるだろう。しかし、スガタはそう思ってしまう。
彼は確かに生きる輝きに満ちている。周囲がその輝きに目が眩んでしまうくらいに。
しかし、星は消える瞬間にこそ、最高の輝きを発するのではなかったか。
それを思うようになったときから、強い焦燥感がスガタのなかで燻り続けている。
もしかしたら、彼に本格的に稽古をつけるようになったのも、自分たちが大切に思っている彼女を守る為などではなく、彼がこれ以上何も失わないようにとの気持ちが根底にあったのかもしれない。
自分でも分からない程自然に、本能に近い部分で従った気がする。
(もしかしたら、あいつはそういうイキモノなのかもしれない)
意図的にせよ無意識にせよ、他者に何かを与えることを業のように、けれども息をするように営むイキモノ。
彼から与えられた人間は、その麻薬にも似た『何か』を失わないために、本能で彼を失うまいとするのかもしれない。
本土の人間が誰しもそういう訳ではないだろう。おそらく、本土の人間にとっても彼は違うイキモノだろう。それならば、
(あいつは、何処に行っても異邦人だ)
この島に居ても。本土に居ても。紛れることは出来ても、混じることはできない、異邦人。
(そういえば、かぐや姫も)
古の物語に描かれた、月から流された美しき罪人。彼女もああやって、月を見上げていた。それならば、彼もあの大きな白い鏡を通して遠い故郷を思っているのだろうか。
(風がだんだん冷えてきた)
肌寒さを感じながら、ふと考える。
故郷とは何を指して言うのだろう。
生まれた場所、育った土地、それらも確かに故郷だろう。
けれども、それ以外にも。
(帰りたいと思った場所が、故郷にはなりはしないか)
生まれた場所でなくとも、育った場所でなくとも、帰りたいと思う場所が故郷だったなら。
(いつか、この島を去ってからも、此処を帰りたい場所だと思ってはくれないか)
自由な翼を持っている者を留まらせるには、翼を折るのではなく、自らの意思で留まろうと思わせることが一番有効な方法だから。
(帰る場所が此処になれば、彼は何処に行っても、必ず此処へ帰ってくる)
瞬間、くだらないと自らを笑う。
(それに、月を鏡とするなら想っているのは『人』だろう)
雅な時代では、鏡に映るのは自らが恋い慕う人の面影だったという。それならば、彼が月に想っているのは守ると決めている彼女だろうか。
そう思うと腹の底で何かが渦巻いた。鎌首をもたげる先は彼ではなく、自らにとっても大切な彼女。
(相手が違う)
そう思うのに渦は肥大するばかりで、自分の中にもこんなものが巣食っていたのかと嫌悪よりも驚きが上回る。今まで一度だってこんな感覚に襲われたことはなかった。
(それもこれも全部、あいつのせいだ)
今ここで彼を見守っているのも。
自身を飲み込んでいく感情が芽生えたのも。
彼を失う恐怖で眠れなくなったのも。
(全部全部)
「っくしゅ」
浮かんでは消えていく思考を切ったのは小さなくしゃみ。勿論スガタのものではなく、外のいる彼のもの。
(ああ、そうだ。あんな薄着で外にいるんだ)
くしゃみだってするだろうし、風邪だって引くかもしれない。
別のイキモノ。異邦人。失う恐怖。それらは全てスガタの中のことでしかない。今、彼は木々の葉を揺らめかせるだけの風に肩を震わせている。
(彼は、いま、此処にいる)
それが何よりも確かなことだった。
「上着も着ないで。風邪を引いても知らないぞ」
「スガタ」
ゆるく体温が奪われているだろう彼に声をかけて自らが着ていた上着を渡した。
光の集合体に見えた身体は細身ながらもしっかりと鍛えられている。襟から覗くうなじから背中にかけての輪郭は青白く、作りものめいていたが、きっと触れれば冷たい皮膚の下にぬくもりがあるのだろう。
「夢の中で月を眺めてたんだ。すっごく大きくて明るくて」
隣に座り、少しでも熱が移るように肩を寄せ合う。触れ合っている部分はお互いの温度差を如実に感じていた。白い寝巻きが一層熱を奪っているように思えた。少しでも触れ合ったところから熱が生まれればと思う。
「夜中に目が覚めたら、ホントに大きな月が出てるし。眠気が冷めたから、思わず見に来たんだ」
「そうか」
呆れた笑顔を作って向ければ、嬉しそうな笑みを向けられて。
「月を見てたらスガタが居ればいいのにって思って。そしたらスガタが来た」
清浄な夜気を生み出す竹林に囲まれたシンドウ邸の道場。道場の正面はぽかりと空間が開いていて、そこには竹林の飾りのように大きな庭石が一つ置かれていた。
その庭石に腰掛けた白い影は、月明かりを一身に浴びて、一心に満ち満ちた月を仰いでいた。
スガタは道場の格子窓から、決して影に気付かれないように息を潜めてその様を見ていた。
スガタがこんな時間にこんな場所にいるのは今日が初めてではない。
ここ最近、夜眠れない。その原因は分かっている。しかしそれが解決されることはないだろうということも分かってた。
浅い眠りをくり返し、不意にが覚めてしまえば再び眠るのは困難だった。少しでも眠れるようにと、近頃の夜は床を抜け出して真夜中の道場で身体を動かすようになっていた。タイガーたちは気遣わしげな眼差しはするものの、止めはしない。
今晩も同じで、そしていつもと変わらず終わるはずだった。
夏と秋の中間の今、昼間は暑く夜はいささか冷える。上着を羽織り道場へ赴き、そして軽く動いてまた寝床に戻ろうとした時、あの白い影がふらりと現れたのだ。
スガタはその白い影の正体を知っている。この邸に居候をしている同級生であり、友人であり、そして、スガタの不眠の原因である。
春の浜辺に流れ着いた外の人間、ツナシ・タクト。
それが白い影の正体だ。
今日はいつも着ている寝巻きが乾いていないからと、ジャガーに代わりの着物を渡されていた。白い着物とその赤髪はきっとお互いを映えさせるだろうなと思った。
鮮やかな赤髪の輪郭を、青白い月光が縁取っている。
その身に纏っている寝巻きの白い着物も淡光を放っていて、彼自身が無数の光りの集合体であるかのようだった。
触れれば一瞬で霧散してしまうかもしれない。
彼が生身の人間であることを知っているのに、そんな風におもってしまうほどの儚さを、彼は纏っていた。
もしも彼が消えてしまったら、形あるものはほとんど残らないのではないか。スガタはそう思っている。
彼が持っていたものは先日の火事でそのほとんどが燃えてしまった。そして、唯一無事だった彼の母親の形見である懐中時計も、今は彼の手を離れ、自分たちにとって大切な少女の元にある。
彼が今持っているのは、その身一つと言っても過言ではないのだ。その身すら綺羅星との戦いに投じてしまっている。
それに気が付いたとき、スガタの身にこれまで感じたことのない恐怖が襲った。
(まるで、与えるためだけに、存在しているような)
本人に知られれば何を言っているんだと一笑されて終わるだろう。しかし、スガタはそう思ってしまう。
彼は確かに生きる輝きに満ちている。周囲がその輝きに目が眩んでしまうくらいに。
しかし、星は消える瞬間にこそ、最高の輝きを発するのではなかったか。
それを思うようになったときから、強い焦燥感がスガタのなかで燻り続けている。
もしかしたら、彼に本格的に稽古をつけるようになったのも、自分たちが大切に思っている彼女を守る為などではなく、彼がこれ以上何も失わないようにとの気持ちが根底にあったのかもしれない。
自分でも分からない程自然に、本能に近い部分で従った気がする。
(もしかしたら、あいつはそういうイキモノなのかもしれない)
意図的にせよ無意識にせよ、他者に何かを与えることを業のように、けれども息をするように営むイキモノ。
彼から与えられた人間は、その麻薬にも似た『何か』を失わないために、本能で彼を失うまいとするのかもしれない。
本土の人間が誰しもそういう訳ではないだろう。おそらく、本土の人間にとっても彼は違うイキモノだろう。それならば、
(あいつは、何処に行っても異邦人だ)
この島に居ても。本土に居ても。紛れることは出来ても、混じることはできない、異邦人。
(そういえば、かぐや姫も)
古の物語に描かれた、月から流された美しき罪人。彼女もああやって、月を見上げていた。それならば、彼もあの大きな白い鏡を通して遠い故郷を思っているのだろうか。
(風がだんだん冷えてきた)
肌寒さを感じながら、ふと考える。
故郷とは何を指して言うのだろう。
生まれた場所、育った土地、それらも確かに故郷だろう。
けれども、それ以外にも。
(帰りたいと思った場所が、故郷にはなりはしないか)
生まれた場所でなくとも、育った場所でなくとも、帰りたいと思う場所が故郷だったなら。
(いつか、この島を去ってからも、此処を帰りたい場所だと思ってはくれないか)
自由な翼を持っている者を留まらせるには、翼を折るのではなく、自らの意思で留まろうと思わせることが一番有効な方法だから。
(帰る場所が此処になれば、彼は何処に行っても、必ず此処へ帰ってくる)
瞬間、くだらないと自らを笑う。
(それに、月を鏡とするなら想っているのは『人』だろう)
雅な時代では、鏡に映るのは自らが恋い慕う人の面影だったという。それならば、彼が月に想っているのは守ると決めている彼女だろうか。
そう思うと腹の底で何かが渦巻いた。鎌首をもたげる先は彼ではなく、自らにとっても大切な彼女。
(相手が違う)
そう思うのに渦は肥大するばかりで、自分の中にもこんなものが巣食っていたのかと嫌悪よりも驚きが上回る。今まで一度だってこんな感覚に襲われたことはなかった。
(それもこれも全部、あいつのせいだ)
今ここで彼を見守っているのも。
自身を飲み込んでいく感情が芽生えたのも。
彼を失う恐怖で眠れなくなったのも。
(全部全部)
「っくしゅ」
浮かんでは消えていく思考を切ったのは小さなくしゃみ。勿論スガタのものではなく、外のいる彼のもの。
(ああ、そうだ。あんな薄着で外にいるんだ)
くしゃみだってするだろうし、風邪だって引くかもしれない。
別のイキモノ。異邦人。失う恐怖。それらは全てスガタの中のことでしかない。今、彼は木々の葉を揺らめかせるだけの風に肩を震わせている。
(彼は、いま、此処にいる)
それが何よりも確かなことだった。
「上着も着ないで。風邪を引いても知らないぞ」
「スガタ」
ゆるく体温が奪われているだろう彼に声をかけて自らが着ていた上着を渡した。
光の集合体に見えた身体は細身ながらもしっかりと鍛えられている。襟から覗くうなじから背中にかけての輪郭は青白く、作りものめいていたが、きっと触れれば冷たい皮膚の下にぬくもりがあるのだろう。
「夢の中で月を眺めてたんだ。すっごく大きくて明るくて」
隣に座り、少しでも熱が移るように肩を寄せ合う。触れ合っている部分はお互いの温度差を如実に感じていた。白い寝巻きが一層熱を奪っているように思えた。少しでも触れ合ったところから熱が生まれればと思う。
「夜中に目が覚めたら、ホントに大きな月が出てるし。眠気が冷めたから、思わず見に来たんだ」
「そうか」
呆れた笑顔を作って向ければ、嬉しそうな笑みを向けられて。
「月を見てたらスガタが居ればいいのにって思って。そしたらスガタが来た」