リャナンシーについて
「俺は妖精を見たことがある」
また、か。
コンクリートが打ちっぱなしの壁の一点を見つめながら、それだけを思った。
「小学生の頃だったかな。東北地方に、家族で旅行に行ってね」
―家族。
そう、この男が、こういう話をするのは、決まって、朝なのだった。
私と寝た日の、朝。
「どんな姿かなんて覚えちゃいないが、俺は確かに見た。それだけは、今も覚えている」
こうなることがわかっているのに、拒むことが出来ない。
聴きたくもない話を、聴く気もないのに、聴かせられる。
「父親も母親も、まだ物心もついていない妹達でさえ、信じちゃくれなかったけどね。ハハッ」
―そこで笑うなよ。
いつも思う。それが嫌で堪らなくて、なのに、
「凄く綺麗だった、本当に。俺は多分、あれを手に出来るなら、他には何もいらない」
なのに、私はまた、この男のこういう話を、聴いてしまっている。
「―捨てられない、過去ってやつだね」
多分、心より、身体が先に拒まなくなったのだ。身体で堕とされたのだと、未だ疼く身の内が言っている。
「ねえ、波江」
声が近い。シーツに滲んだ影に、屈まれたのだと知った。
「俺さ、君が手に入るなら、他には何もいらないって、気づいちゃったんだけど」
腕が伸びる。まるで、逃がさないとでもいうように。
「私を、妖精なんかと一緒にしないでくれる?」
壁の一点を見つめたまま、衝動を堪えた。
振り向いて、腕を振り上げて、
「してないよ…?だって、君は、」
「っ…」
振り上げた腕を、私は、どうするつもりなのだろうか。
「君は、俺に抱かれて感じて虜になっちゃう程度の、ただの人間じゃない」
「っ、臨…!」
仰ぎ見た先に、男の顔があった。綺麗な、いもしない妖精なんかより、ずっとずっと、美しい、
「…臨也…?」
今にも泣き出しそうな顔が。
「君の存在は、誰も否定しない」
「…」
「愛したって、良いんだろ」
そう吐いた唇で、男は私の唇を塞いでしまった。
―だから、嫌なのに。
わかっているのに、私の身体は、喜んで蜜を垂らし始めた。
「ねえ、リャナンシーって、知ってる?」
うわ言のように問われて、私は何と答えたのだったか。
覚えていない朝が、嫌いなのだ。
『リャナンシーについて』
作品名:リャナンシーについて 作家名:璃琉@堕ちている途中