月影
客室の前を通りがかると、中から人の声がした。
「今お茶を持ってきたのが副長の?」
「刃鳥だ。君は会うの初めてだったね、夜未さん」
夜未。鬼使いの春日夜未のことだろう。あまり能力は強くないが独自の情報網を持っており、時折情報交換のために正守と外で会ったりもしているらしい。夜行の本拠地に自ら足を運ぶのは珍しい。
「とっとと刃鳥さんと結婚でもして身を落ち着けたらどう?今の自己犠牲の生き様は、長くは続かないわよ」
「心配してくれるんだ?嬉しいねえ」
これ以上は盗み聞きになるだろう、と行正はその場を後にした。
夜未と正守の打ち合わせはすぐに終わって、夜未はいつしか姿を消し昼食時には正守は普通の顔をして席についていた。
正守がいつもと同じであればあるほど、なんだか澱のようなものが胸にたまっていくのを行正は感じていた。
夜も更けて、今日は月の美しい晩だ。
正守の部屋を見渡せる庭の一角で、行正は悩んでいた。
具体的に何に悩んでいるのかはわからない。ただ正守と話をする必要があることだけは分かっていたが、あまりに曖昧模糊とした理由のために部屋の戸を叩くのを躊躇っていた時――
ガラリと正守の部屋の戸が開く。身構えた行正を、正守が呼んだ。
「出ておいで、行正」
「――……」
しばし逡巡した後に、行正は姿を表す。
「いい夜だね」
「……どうして、俺だとわかったんですか」
「お前の気配くらい術を使わなくても分かるよ。それに」
正守がにやりと笑う。行正は先を促した。
「それに?」
「昼間何かに悩んでる風だったからな」
「……!」
見抜かれていた。思わず狼狽える。
「まぁ入れ」
促されるままに正守の部屋に入る。まだ寝る段階ではなかったらしい、小さな文机に向かっていた跡がある。二人で膝をつきあわせるように座ると、正守が訊ねてきた。
「で、何に悩んでたわけ?」
「それが、わからないんです」
行正は素直に言葉を返す。
「じゃあ質問を変えよう。いつから悩んでた?」
「昼食前……春日夜未さんが来てたときからですね」
「どうしてだい?」
そこまで問われて、行正はようやく自分が何に反応したのかを理解した。
『刃鳥さんと結婚でも――』
正守が。結婚する?それは想像を超えた、けれど決しておかしくはない出来事だった。
あのまま忘れられると思っていたのに、何故今になって、あの言葉を流すことができなくなっているのか。
「……頭領」
「ん?」
(――ああそうか)
この思いの行き着く先は虚無でしかない。だからだ。
「頭領も、いつか、結婚しますよね」
「どうかなぁ」
「もし結婚したら、俺、ちゃんと結婚式に出ますから」
「……なに、どしたの、突然」
「隠してみせます。頭領への思いとか、今までの出来事も、全部」
「……」
正守は困った顔をしている。だがその眼差は真摯だ。ちゃんと自分の話を受け止めてもらえてると確信を得て、行正は同意を求めた。
「頭領も、それでいいですよね」
「なんて言ったら納得してくれる?」
声に秘められた熱さに気付いてハッとする。今の正守の表情は困った顔ではない。怒った顔をしているのだ。静かに、そうと気付かないほどにさりげなく。
「今のところ結婚なんて考えたことはないし、正当継承者じゃないから継ぐ家もない。そんな先のこと、分からないのに、お前は俺の結婚を見守るという」
「……はい」
「俺に飽きたか?」
「逆です。頭領がどんな道を選ぼうと、俺は変わらないと言いたかった――今も」
そのまま沈黙が訪れる。行正は言いたいことをきちんと言うことが出来た奇妙な安堵と不安を感じていた。
「わかったよ。ありがとう。その気持ちはちゃんと受け取ったから。これでいいか?」
「はい」
行正が正守の言葉のひとつひとつを噛みしめながら立ち上がって部屋を跡にしようとした時、正守が行正の背中に問いかけてきた。
「もう帰るのか?」
「……いいんですか?」
行正は振り返る。このままこの部屋にとどまるということはそういうことだ。質問に質問で返した行正に、正守は苦笑する。
「嫌ならこんな時間に寝所になんか招かないよ」
「……はい」
襖の合間から入ってくる月の光を締め出すように寝所の戸を閉めて、行正は正守に近づいていった。
<終>