言えるわけない
日が沈んでからの空気はぐっと冷たさを増して、外から中から体をじんと冷やしていく。
手袋コートマフラーの完全防備で挑んでも寒さは完全に防ぎきれなくて、風が吹くたびに体が震える。
ああ早く家に帰りたい。家に帰ればストーブもこたつもある。こんな寒さとは無縁にぬくぬく過ごせるのに。それなのに。
俺は帰路につかずに、ただ千歳のアパートの部屋の前に座り込んでいた。
千歳の酷いサボリ癖については今更説明することも無いと思う。
今日も今日とて千歳は学校に来ていなかった。
まあ珍しいことではない。部活を引退する前は部活もよくさぼっていたっけ。
そんな千歳に学校からのプリントやら連絡やらを千歳に伝えるのは俺の役目になっていた。
部長職からの延長か、それとも恋人として一緒にいたからいつのまにかそういうことになっていたのかそれは定かではないけど。
そういうわけで今日もさぼった千歳にプリントを届けに来たのだ。来た、と言っても学校の帰りに寄っただけなのだけど。
しかしいつもは家でだらだらしているはずの千歳が今日はいなかった。
チャイムを鳴らしても反応がない。寝ているのかと思ったけれど、家に千歳のいる気配はなくてどうやら留守のようだった。
駄目元で携帯にかけてみたけれども、当然のごとく出ない。あいつは携帯を携帯しない人間だから予想はついたけど。
さてどうするか。
別に急ぎのものではない。持って帰って次に会ったとき渡せばいい。
ここでわざわざ待つ必要なんてない、のだけど。
俺は千歳のドアの前にすとんと腰を下ろした。
とりあえず1時間くらいは待ってみようか。まだ帰りの電車には余裕がある。
じんじんと風は体を凍えさせるけれど、1時間くらいならきっと平気。
そう思いながらマフラーをそっと巻きなおして、ぼんやりと空を見上げた。
それから待つこと20数分。
カランコロンという下駄の音が聞こえた。
案外早かったなあと思いながら、寒さで痺れた足を擦りつつそっと立ち上がる。
「お、帰ってきたんか」
「…、く、蔵!?」
どこかへ買い物に行っていたのか、千歳はスーパーの袋を手に提げていた。
今回はどこか遠くへ放浪していたわけではないらしい。
ふ、と安堵のため息を吐く。
「千歳、お前また休んだやろ」
千歳の頬を手の甲でそっと叩いてプリントを差し出す。
千歳はほんの少し申し訳無さそうな顔をしてそれを受け取った。
そして心配そうに口を開く。
「ずっとここで待っとったと?」
「別に、じゃ俺帰るな」
もう用は済んだのだし。
千歳に背を向けてバイバイ、と振ろうとした手を掴まれた。
そっと振り返るとこちらを真剣に見つめる千歳の顔。
「上がっていきなっせ」
「気つかわんでもええって、これ届けにきただけなんやから」
「だめ、ほら上がって」
こうなると千歳は俺の言うことなんて聞きやしない。
俺の腕を掴んだまま鍵を開けて、そのまま家の中へ引き入れた。
千歳の部屋は相変わらず閑散としていて、寒かった。
窓を開けているわけでもないのにどこからかひゅうひゅうと隙間風が入ってきて開いたドアから抜けていく。
帰るのは仕方なく諦めて、とりあえずその寒さから逃れる為に開いた片手でそっとドアを閉める、と。
「蔵」
やっと手が離されたかと思えば、靴を脱ぐ間もなく抱きしめられた。
「待たせてごめんね、蔵」
抱き寄せられた耳元で囁かれてビクリとする。二重の意味で。
ドキンと揺れた心臓を落ち着けながら、何事もないように装って言葉を返す。
「せやから、待ってないって…」
「そげん言っても蔵の体こんなに冷えとるけん、待ってないってのは嘘ばい?」
千歳の頬がすり、と俺の頬に触れる。
冷たいと思っていた千歳の頬はそんなに冷たくなくて、というよりもほんのりぬくかった。
何でだろうと思って、俺の頬が千歳のよりもかなり冷えていたからということに気づく。
更に千歳の手は俺の首をそっとなぞった。
てっきりひやっとするかと思ったのだけれど、やっぱり同じようにじわりと温かい。千歳の指が触れたところがあたたかくて気持ちいい。
こんなに俺の体は冷えていたのか、全然気づかなかった。
千歳だって外をふらふら歩いてたはずなのに。
「こんなに冷えるくらい俺んこつ、ずっと待っとったとやろ?なんでそげんしてまで待っててくれたと?」
「だ、だから…別にそんなんやないって」
「俺に会いたかったから?」
「ち、違うし、あほ!」
「ほんに?」
疑問符をつけながら千歳は俺の顔を覗き込んでくる。
しかしその目は疑問というよりもむしろ確信の色を帯びていて。
千歳の質問に俺が頷くのを待っているかのようだった。
実際、千歳の言うとおりだ。じゃなきゃこんな寒空の中待っているわけがない。
でも馬鹿みたいじゃないか、そんなこと。
言えるわけがない。お前のためにここでずっと待っていましただなんて。
どうしてそこまでして待っていたかだなんて。
心の中で思うことすらごまかしてかき消してきたのに。
たかが一日、今日学校で会えなかったくらいでのこのこ千歳の家まで来るなんて、本当反吐が出るくらい乙女で寂しがりやみたいで、嫌になる。
だから俺の口が紡ぐのは反対の言葉だ。
「俺は…これを頼まれたから…待ってただけで…」
「あ、待ってたことは認めたとね」
「…揚げ足取るなや性格悪い」
「うん、ごめんね」
頬を両手で包まれて口付けられる。
千歳の両手も唇も舌もふわりと温かくて、じわりと染み込んでくるような感じがする。
あたたかい、きもちいい、そして溶けるような幸せ。
結局、俺が求めてたのはこういうことなんだ、と改めて気づいてしまう。
触られたかった。だから馬鹿みたいに待ってた。
千歳の唇が離れて、再び抱きしめられる。
「ありがとね、蔵」
心底嬉しそうな声で言うから心がふわりと浮いてしまう。
悔しい。何も言い返せないからこれじゃ認めてしまっているのと同じだ。
きっとこれ以上反論したって無駄。
「…これからはあんまりふらふらすんなや」
「うん」
「ちゃんと学校にも来い」
俺に出来る精一杯の言葉を紡いで千歳の背に手を回す。
何の愛想もない言葉だけれど、きっと千歳はこの拙い俺の言葉の中だって本心を掬い出してしまうからこれくらいでちょうどいい。
言えるわけない、けど、言わなくたっていい。
「うん、蔵…、…うれしか」
ほら、やっぱり。