紅い少女
もうひとつは恐怖した時。ひとを怖がらせるために、じかに傷つけることは必要ない。店先に押し入って、その辺の棚を適当になぎ倒して、するどい槍の先を向けてやれば、ほら、果物屋の爺さんはもう腰を抜かして、口の端から白い泡をこぽこぽと流している。口なんてそんなに大きいもんじゃないのに、あんなにたくさんの泡、どうやって出てくるのだろう。眺めるたび不思議な気持ちになった。
爺さんはがたがた震えながら旧式のレジスターに手をかけた。汗に濡れた手を二度三度滑らせながら、どうにか引き出しを開けて、中から万札を何枚も取りだした。
「あああ、あ、あ、あ」
上と下の入れ歯がぶつかって、がちがち言う音が聴こえる。いったいなにを言おうとしてるのだろう。
「ああああ、あ、あ」
爺さんは万札の束を両手で乱暴に掴むと、震える腕であたしに差し出した。握り潰されてぐしゃぐしゃになっていた。
「りんご」
こんな札束をあたしはもう何度も目にした。けれどそれに手をつけたことは一度もない。
「りんごをちょうだい」
「あああ、あ、あ」
親父が死んでからこっち、あたしは、りんごみたいなものばかり好きになっている。
建設中の高層ビルの片隅、鉄骨と鉄骨の間に、あいつがひとりきりで身を丸めていた。体を覆う大きなマントは、血と泥でまだらになって、もう元の白い色を留めていない。まだらのマントに首から下、すっぽりとくるまって、あいつ、枝にひっかかった蓑虫みたいな姿をしていた。
隣に立って見下ろす。俯いた顔の表情をうかがうことはできない。
「おい」
声を掛けたところで、返事がないのは分かっていた。
「まだ腕はついているか、でくのぼう」
しゃがんで瞳を覗き込んだ。視線はぼんやりと宙を漂っている。あたしのほうへ向くことはもちろんない。
りんごをひとつ、抱えてきた袋から取り出して、薄汚れた頬にぐいと押しつけた。
「食えよ」
腕があるなら腕で食え、ないなら足で掴んで食え、それもないなら、てめえの口で齧りつくんだ。
告げても、暗い瞳はすこしも動かなかった。両目にガラス球を嵌めた人形のようだった。
あたしは痺れを切らし、りんごを頬から離して、自分で一口齧る。
血と泥の味がする。
それから、もう一方の手であいつの顎を持ち上げて、唇に唇を押しつけた。脇に抱えた袋からりんごが二、三個こぼれて、深くて暗い地面のほうへ落ちていった。
あいつの口が、ようやく、意志をしめす。
あたしは唇を離して血を拭った。あいつの顎が噛んだのは、口の中へ押し込んだりんごの欠片ではなかった。あたしの舌だった。
「いい度胸じゃねえか」
舌からじわじわと溢れ出してくる自分の血を何度も飲み込みながら、あたしはもういちど美樹さやかに向き直った。美樹さやかの暗い視線の所在を確かめた。
少し切れただけだ、たいした怪我じゃない。なのに口の中の血は止まらない。わずかばかり、口の端から流れ出しているのにも気づいて、そのとき、あたしは不意に悟る。
ああ、そうか、この口から、みんな泡を吹くのだ。